【戦国こぼれ話】血も涙もない織田信長は抵抗勢力に対して、大量殺戮で応えた。代表的なジェノサイド3選
某国による大量虐殺は、今も取り沙汰されているが、いまだに全容が解明されていない。ところで、戦国時代において、織田信長が大量虐殺を行ったのはご存じだろうか。うち3つを取り上げることにしよう。
■長島の一向一揆
長島とは現在の三重県桑名市の地名で、ここで一向一揆が蜂起して、織田信長に果敢にも戦いを挑んでいた。それは、計4回にも及んだ。
というのも、元亀元年(1570)9月、大坂本願寺は織田信長との関係が決裂し、以後、約10年にわたる戦いを繰り広げていたからだ。
長島の願証寺を中心とする一揆勢力は、本願寺顕如の呼び掛けに応じて挙兵した。
元亀元年(1570)11月、長島の一向一揆は織田信興(信長の弟)を早速、血祭りに上げるなどした。
翌年、信長は約5万の兵を率いて長島の一向一揆と対決したが、あっけなく敗北した。
土地勘のある長島の一向一揆はゲリラ戦を展開し、信長軍を恐怖のどん底に陥れたのだ。
元亀3年(1572)の戦いでも、信長軍は大敗を喫した。
元亀4年(1573)7月、信長は長島の一向一揆を打ち倒すべく、約8万という大軍で攻め込んだ。
結果、信長軍は大勝利を収め、長島の一向一揆は2万もの人々が虐殺で失われたのだ。
その容赦のない殺戮は、神も仏もいないのかと思わせる惨劇だった。
■越前の一向一揆
天正3年(1575)8月、織田信長は越前の一向一揆を掃討すべく、約3万の兵で攻め込んだ。
迎え撃つ一揆勢は、西国の一揆勢の援軍も得て待ち構えていた。
しかし、しょせんは多勢に無勢であり、その兵力差は圧倒的だった。
信長軍は怒涛の如く府中(福井県越前市)に攻め込むと、たちまち2000もの一揆勢を血祭りにあげた。
以後の戦いも信長軍が圧倒的に優勢に進め、敗北した一揆勢は討ち取られるか、山中に逃げ込むかのいずれかだった。
それでも信長は無慈悲にも、決して戦いの手を緩めなかったのだ。
一揆勢は完全に崩壊したが、信長は配下の者に対して、山中に逃げた一揆勢の探索を命令した。
そして、見付け次第に撫で斬りにするよう命じた。それは、決して容赦のないものだった。
結果、越前の一揆勢は約1万もの人々が討ち取られ、3~4万もの男女が織田領国の美濃や尾張へと連行された。
そして、豊原寺(福井県坂井市)は一揆勢に味方したので、全山を焼き払われたのである。
逃げ惑う人々の姿は、地獄絵図さながらだったという。
■天正伊賀の乱
伊賀は惣国一揆(支配層が結合して確立した統治共同体)が支配していたが、織田信長は支配を狙っていた。
とはいえ、それは決して簡単なことではなかったのである。
天正6・7年(1578・79)にかけて、織田信忠(信長の子)が伊賀を平定しようとしたが、それは失敗に終わった。
惣国一揆は大軍ではなかったが、ゲリラ戦で徹底抗戦し撃退させたのだ。
天正9年(1581)9月、織田信長は約10万といわれる大軍を率いて伊賀に攻め込んだ。
伊賀の惣国一揆は籠城し、夜襲を仕掛けるなどゲリラ戦を展開したが、すぐに敗勢は濃くなった。
信長軍は村や寺社を焼き払いながら進軍し、わずか数日で伊賀一国を手に入れた。
その間、伊賀の惣国一揆の戦闘員、非戦闘員を問わず、約3万もの人々が虐殺されたという。
殺戮は僧侶に対しても行われ、その数は平楽寺で約700に及んだといわれている。
■まとめ
よく、織田信長は無宗教(無神論者)だったので、一向一揆と対決したというが、それは間違いである。
理由は簡単で、一向一揆が抵抗するから、応じたまでなのだ。
伊賀の惣国一揆も同じことで、素直に従えば信長は許したのだ。
しかし、そうでなければ、信長は大軍を送り込んで大量虐殺を敢行し、恐怖でもって押さえ付けようとしたのだ。