豊臣秀吉は、徳川家康を権中納言を斡旋することで懐柔しようとした
大河ドラマ「どうする家康」では、豊臣秀吉が徳川家康に権中納言の位を執奏していた。秀吉は決して単なる厚意で、家康の官職を斡旋したのではない。秀吉の本心を考えることにしよう。
永禄9年(1566)12月、家康は従五位下・三河守に叙位任官された(その後、左京大夫に)。しかし、その後は昇叙された形跡を確認することはできない。
天正14年(1586)11月、家康は秀長(秀吉の弟)とともに、正三位・権中納言に叙された。順調な出世のように思えるが、その間の昇叙は、いったいどうなっていたのだろうか。
元亀2年(1571)以降、家康は従五位上・侍従に叙位任官され、天正12年(1584)には従三位・参議まで昇進した。しかし、これは史実とは認めがたい。
家康が正三位・権中納言に叙された際、従五位下・三河守から一気に昇進したのでは具合が悪い。そこで、少しずつ昇進したように思わせるため、遡及して叙位任官したかのように見せかけたのである。
天正14年(1586)12月、すでに関白だった秀吉は太政大臣に昇進し、さらに天皇から豊臣姓を下賜された。こうして秀吉は、天下人にふさわしい極官に上り詰めたのである。
当時、官職の上では、従二位・大納言の織田信雄がナンバー2だった。信雄は秀吉に屈したとはいえ、主人筋の織田家の人間だったので、厚遇されたと考えられる。
ナンバー3に位置したのが、家康と秀長である。つまり、秀吉は家康と信雄を官職のうえで厚遇することで、政権内に取り込んだということになろう。その後も、この序列は維持された。
天正15年(1587)8月、信雄は正二位に叙せられると、家康と秀長は従二位・権大納言に昇進した。その3ヵ月後、信雄は内大臣に昇進したのである。
天正18年(1590)の小田原征伐後、家康は関東に移封となった。信雄は秀吉から家康のあとに入るよう命じられたが、この命令を拒否した。
その結果、信雄は改易されることになり、出家を余儀なくされた。信雄がいなくなったので、家康と秀長がそのままナンバー2の座に昇格したのである。
秀吉が家康と和睦をする際、手ぶらではなかなか叶わなかった。そこで、ふさわしい官職を与え、政権内における高い序列を保証したうえで懐柔したということなろう。
以後、秀吉は独自の武家官位制を用いて、大名統制を行った。この点は、改めて取り上げることにしよう。