ミャンマー出身の人気デザイナー・渋谷ザニーが示す「自分だからこそできること」
日本テレビ「シューイチ」でコメンテーターも務めるファッションデザイナーの渋谷ザニーさん(38)。8歳の時に家族とミャンマーから日本に亡命し、言葉も文化も分からない中での生活が始まりました。「ミャンマーと日本。二つの根っこを持つ自分だからこそ示せるものがあると思います」と胸の内を吐露しました。
自分を守るために
2週間ほど前に子どもが生まれたんです。
これでもかとやることがたくさんあって、こんなに大変なんだなと痛感しています(笑)。おむつもこんなに替えないといけないのかと一つ一つ発見の連続でもあります。
でも、1993年にミャンマーから日本に来た自分が日本人の妻と結婚して、新たに日本人が一人生まれた。そう考えると、なんとも言えない思いにもなりました。
軍事政権下のミャンマー、旧ビルマを出て平穏を求めてアジアの大国である日本にやってきました。ただ、日本に来るまでは全く日本と縁がありませんでしたし、日本といえば、着物、忍者くらいのイメージで(笑)、言葉も全くしゃべれない状態でした。
そして、8歳という年齢も微妙な年齢で、もう物心はついているけど、何もかも分かっているわけではない。迷いながらも、自分なりにいろいろ考えたことが、実は今の仕事に深く関わってもいるんです。
東京の板橋というところが地元になるんですけど、皆さん本当にやさしくしてくれてありがたかったんですけど、今より海外の人が少ない時代でしたし目立つのは事実でした。小学校でもいじめられたり、仲間外れにされたりしないか。その怖さがあったのも紛れもない事実でした。
そこで8歳の僕が考えたのが“身なりをきれいにする”ということだったんです。いつも靴の泥をはらってピカピカにしておく。Tシャツにも毎日アイロンをかけておく。そうやって常にきちんとした格好をしておくことで自分を守る。そこが今の仕事の原点になっています。
自分だからこそできること
ミャンマーで生まれて日本に来たことが、今の自分を形づくっているのは間違いないですが、自分の根っこという部分を考えることもしばしばあるんです。考えるというよりも、感じるというか。
大学時代に交換留学生としてアメリカに行ったんです。不慣れな土地で暮らす中で「あ~、帰りたいな…」と思うことがありますよね。その「帰りたい」という感覚で思い浮かべる土地が日によって違うんです。
アメリカの日本食レストランでご飯を食べていて、日本のものとはかけ離れた“なんちゃって味噌汁”みたいなものが出てきたら「早く日本の味噌汁が飲みたいな」と思いますし、フロリダとかに行くと風が亜熱帯の風になるので目をつぶると「あ、これはミャンマーの風だ…」と思う。
当時は18歳でしたけど、日本への思いとミャンマーへの思いが自分の中にあることをアメリカに行くことで端的に感じた思いがしました。
日本語で“根無し草”なんて言葉がありますけど、一つのところにとどまらず、良い意味でタンポポの種みたいにどこにでも飛んで行って、あらゆるところに根を張る。そんな生き方も良いのかなと改めて考えてもいます。
そして、そんな自分がしっかりと生きる。生きていることを発信する。それによって生まれる価値観もあるならば、それが自分にしかできない役割なのかなとも思っています。
昨年末、仕事関係でお世話になっている方々と会食する機会があって、そこでのあいさつでも言わせてもらったんですけど、本当に日本という国は誇るべき国だと思います。いろいろなところに根を持つ僕だからこそ思いますけど、世界を見ても、日本は良い国だと思います。
今は新型コロナ禍で僕も仕事が大変な状況になっていますし、多くの方が大変な状況になっていると思います。でも、誇るべき国に暮らしているんだということを自信に前に進むのも決して間違ったことではないと僕は思っています。
悪い連絡は突如電話一本で入ってきますけど、良い連絡はなかなか来ません。種をまいて、時間をかけて育てて、やっと良い連絡が来る。
これはね、本当に簡単なことではありません(笑)。でも、種をまかないと良いことは起こらないし、これからも何とかまき続けたいとは思っています。
(撮影・中西正男)
■渋谷ザニー(しぶや・ざにー)
1985年1月1日生まれ。旧ビルマ(現ミャンマー)出身。ファッションデザイナー。ワタナベエンターテインメント所属。国連UNHCR協会国連難民サポーター広報担当。93年、8歳の時に政治的な弾圧からの自由を求め家族とともに日本に亡命。2007年亜細亜大学国際関係学部国際関係学科卒業。雑誌モデルとして活動し、2011年にファッションブランド「ZARNY」を創設。12年、日本国籍を取得。21年、弾圧下のミャンマー国民の生活を支援するため「フル・ムーン基金」を立ち上げる。