阪神タイガース・伊藤稜の“プロ初登板”をチームメイトみんなが祝福。そして、ご両親の目には涙が…
■“プロ初登板”を果たした
「ピッチャー・伊藤稜」がコールされたときだ。阪神鳴尾浜球場は大歓声に包まれた。
チームメイトが、トレーナーさんたちが、首脳陣が、そしてファンが待ちに待った瞬間だった。
長かった。とてつもなく長かった。
中京大学から2021年の育成ドラフト1位で入団したものの、すぐに左肩を痛め、手術も経験し、リハビリが延々と続いた。状態は何度も何度も行きつ戻りつしながら、ようやく7月7日、実戦マウンドにたどり着いた。
さまざまな思いを胸に、3年目の伊藤稜投手は黒土を踏みしめた。これが“プロ初登板”だ。
公式戦ではないが相手は社会人の強豪、日本生命。先頭を遊飛に仕留めて1死を取ったが、続いて2者連続でヒットを許し一、二塁となった。ここでマウンドに藤田健斗捕手が間を取りにいく。
ベースカバーなどの動きの確認をして気持ちを落ち着け、次打者と対峙すると、みごと2球で二ゴロ併殺打に斬った。小走りでベンチに帰ると、みんなが笑顔で出迎えてくれた。
「投げているときも、投げ終わったあとも、バックからもベンチからもすごくたくさん声かけしていただいたんで、投げ終わって迎えていただいて、すごく嬉しいです」。
伊藤稜投手は安堵の笑みをこぼした。ブルペンからもトレーニングルームの階段からも、ベンチの隣からも上からも、チームみんなが“プロ初登板”を見守ってくれていた。
■周りへの感謝の思い
降板後、上気した顔でまずに口にしたのは「感謝の思い」だった。
「投げられてよかったなっていうのと、ずっとケアや治療をしてくださった理学療法士の方やトレーナーさん、ドクターもそうですし、支えてくださった人たちに本当に感謝したいです。いろいろ迷惑かけたんで、やっと立ててよかったなっていうのが一番」。
17球中15球がストレートで、最速は143キロだった。「まだ全然コントロールもできてないし、スピードもあまり出てなかった」が、投げられたことに充足感が漂う。
ただ、マウンドでは「必死すぎて余裕がなかった」から、スタンドからの声援も耳には届かず、自身の名前が入ったタオルも目に入らなかった。「投げていって余裕がでてきたら、そういう声も聴こえてくるかな。今日は精いっぱいでした」と振り返る。
「まだ不安はあるけど、投げる前よりかは全然いいかなと思います」。大きな大きな第一歩を踏み出せた。
■自分とではなく、やっとバッターと戦える
朝からいつもとは違った。試合前にやるベンチ前でのゴロ捕の練習に、初めて参加した。周りの投手陣はもちろん初めて登板することを知っているから、伊藤稜投手が捕球するたびにヤジを飛ばしていじったり、「ナイス!」と盛り立てたりした。一つ一つのプレーに必死な伊藤稜投手は、顔つきもいつもよりこわばっているように見えた。
練習が終わったとき、「まだ緊張はしていない。これからですね」と余裕を見せる一方で、「不安です」とも口にした。バッテリーを組む藤田捕手と球種のサインを綿密に打ち合わせ、試合に備えた。
「今までずっと自分と戦ってきたけど、今日やっとバッターと戦える」。
ぽつりと口にしたその言葉は、伊藤稜投手のこれまでの苦悩を凝縮していた。
■同い年の湯浅京己と岡留英貴はブルペンの“桟敷席”で見守った
ブルペンでは「緊張でガチガチやったっす。緊張して苦笑いしてました(笑)」と、岡留英貴投手がバラす。伊藤稜投手も「(マウンドに)上がるときもそうですし、(ブルペンで)作っているときとか、めっちゃ緊張しました」と認める。
しかし、岡留投手はとくにリラックスさせようとはせず、「ガチガチのまま、行かしたろうと思って(笑)」と送り出した。
湯浅投手は試合前、「今からタイガースショップに行って、稜のタオルを買ってきてー」と突如、無理なお願いをしてきた。どうやら伊藤稜投手のグッズである「名前入りタオル」を、ブルペンから掲げたいと思いついたようだ。さすがに叶えることはできなかったが…。
ブルペンから送り出すときには、「『頑張れ!』ってケツ叩きました(笑)」と比喩ではなく本当に叩いたと笑う。気合いの注入だ。
「最高の送り出しをしてくれました」と同い年コンビの応援の気持ちをしっかりと受け止め、伊藤稜投手はマウンドに上がった。
ゲッツーで仕留めた瞬間、頭の上で大きく拍手をし、降板後はすぐ「ナイスピー」と讃えたという湯浅投手は「感動した、ほんまに。やっぱ頑張ってるし、いろいろ見ているし、話も聞いてるし。涙出た…いや、我慢した(笑)。とりあえずよかったす。ここからっす」と、友の初登板を心から祝福していた。
岡留投手も「3年くらい空いて、マウンドで普通に投げられたってことは、すごいじゃないですか。湯浅とみんなで見てましたけど、本当にみんなが喜んでいた。今日はちょっと乾杯でもしようか」と持ちかけた。
実は「故障者リスト」から外れるまではとお酒は断っていた伊藤稜投手だが、この日ばかりは軽く「缶のハイボールで」祝杯を挙げた。
■自身のご両親と親友のご両親
伊藤稜投手にとって、この日の晴れ姿をどうしても見てもらいたい人たちがいた。愛知県に住むご両親だ。はるばる鳴尾浜球場まで日帰りで足を運ばれた。
「普段、全然連絡ないんですよ。でも、その稜から珍しく(登板の)連絡があって『来る?』って。『行くよ』って返事して来ました」と母・寿子さん。
父・勉さんは「オフに帰ってきても野球の話はしませんね。こちらからは何も言わないし、聞かない。やっぱり最高の世界でやっているわけだから、わたしたちが言うことは何もないです。ただ黙って見守っています」と苦しんできたであろう息子の心境を慮りながら、言葉を紡ぐ。
登板後、ご両親は「何年ぶりかなぁ、投げているところを見るのは。ヒットは打たれたけど、よく抑えましたね。みなさんがベンチで出迎えてくださったのが、本当に嬉しくて…。みなさんにただただ感謝です」と、我が子の名前入りタオルの端で、そっと目頭を拭われていた。
また、大学時代の親友のご両親も香川県から駆けつけてくださっていた。こちらのご夫妻もまた、「伊藤稜タオル」を肩にかけて応援され、マウンドでの雄姿に涙を流して喜ばれていた。
■和田豊ファーム監督
試合後、チームのみんなが喜びの声を発する中、和田豊ファーム監督も相好を崩す。
「本人もいろんな思いがあってマウンドに上がったと思う。しっかりストライクも取れたし、1回を0で帰ってきた」。
自身の特命スカウト時代、大学生の伊藤稜投手を見る機会があったという和田監督は「ほんとに素晴らしいまっすぐを持っている選手」と称し、「今日は投げられたっていうことだけでいい。これから少しずつ自分の持ち味のストレートを磨いて、次の試合につなげてほしい」と、今後のさらなる飛躍に期待していた。
■藤田健斗捕手
バッテリーを組んだ藤田捕手は「僕もほんまに嬉しかったです」と笑顔を弾けさせる。
「初めての試合で緊張せんわけないやろうなと思っていたんで、僕がジェスチャーなり声かけなりでしっかり引っ張っていけたら」と考えて臨んだというが、受けながら、伊藤稜投手のこの試合にかける思いが伝わってきていたそうだ。
「打たれたらこっちの責任なんで」「打たれるのは気にしなくていいです」などと、年下ながら頼もしい言葉でリードした。「頑張ってランニングされてりたり、普段の姿勢とか見てきているんで」と、藤田捕手も「なんとかサポートしたい」という思いでミットを構えた。
伊藤稜投手も「藤田のおかげっす。引っ張ってくれました」と感謝していた。
虎風荘の一つ屋根の下で寝食をともにする仲でもある。「稜さんはシャイであんまりしゃべらないように見えて、けっこうしゃべるしおもしろい。ちょっと猫かぶってんすよ(笑)」と寮の中でもよくコミュニケーションをとるという。
「最後、無失点で帰ってこられて、ホッとしました。僕が言うのもなんですけど、今日は投げられたことが、稜さんにとって一番よかったのかなと思う」。
今後バッテリーが組めることを楽しみにしていた。
■リハビリ担当のトレーナー陣
伊藤稜投手が感謝してもしきれないのがトレーナー陣だ。ベンチ横で見ていたという福本剛トレーナーは「もう涙がちょちょぎれました」と目尻を下げる。2年前から見ているというが、「稜自身、これが分岐点になると思います」と安堵の表情をしていた。
「いつも明るく振る舞っていて、彼は落ち込むところを見せない。見せないのは彼の強さかもしれないですね。ほんと、そこまで沈むって言う感じは見せないですね」。そう。常に明るく、清々しい。腰の低い好青年なのだ。「ほんと、人に嫌な思いをさせない。だから、みんなに愛されていますね」。
そして福本トレーナーは「僕より新井ですよ。新井がリハビリ担当で、入団してからの3年間、ずっと見てくれているんで。新井は『なんとかしてやる』っていう気持ちでやってくれていた。本当に一生懸命にやってくれていたっていうのが、すごくありますね」。
その新井雄太トレーナーも感慨がひとしおといった感じだ。
「だいぶ時間もかかったし、僕たちもけっこう悩んでいるときにやっと上がってきた。やっぱり嬉しいのもありますけど、まだ不安というか、初めての試合でちゃんと投げきれるかってヒヤヒヤしながら見ていました」。
複雑な心境を吐露し、入団時を振り返る。「入ってきたときから痛みはあって、でもまだ投げられるくらいだったので、ちょっとずつ上げていったらやっぱりダメで…」。春季キャンプから帰ってブルペンには入ったが、70球まで投げたところで次のステップに進めなかった。80球まで投げられたらシート打撃にと考えていたのが、結局そこまでは至らなかったのだ。その年の12月に左肩の手術を受け、昨年もまだ痛みは残っていた。
「ちょっと段階を上げるとガタンと落ちたり、の繰り返しでした。それでもあんなに明るくいられるのは、ほんとすごいです。(髙橋)遥人も『あいつはすごい』って言ってますね」。
今後も引き続き状態を見ながらということになるが、炎症がなければ次の登板を相談していく。
「でも、本当に大きな前進です」。
新井さんにとっても、ほんのちょっぴり肩の荷が下りた登板だったようだ。
■チャレンジできる未来
今後については「投げ続けないとダメ」と自身に課す伊藤稜投手。
「3年目になっていますし、元気に投げている姿っていうのは見せないといけないですし、支配下っていうのに向けて今日投げられたことでスタートできたと思うんで、そういうところに争っていけるようにもっと練習を頑張ります」。
やっと立てたスタートライン。ここからまだ茨の道は続く。次はコンスタントに登板すること、結果を積み重ねること。そして、そこから支配下を目指す。支配下になれば、今度は1軍昇格に向かって鍛錬を積む。
ただ、これまでとはまったく違う。試合で投げられるのだ。伊藤稜はチャレンジできる自身の未来に、明るい光を見出している。