付属池田小事件から17年:事件は防げなかったのか
彼は子供の頃から問題児だった。成長するにつれトラブルはさらに大きくなり頻発した。そして自らの死を覚悟し、道連れを作ることを思い立った。
■付属池田小事件17年。
8名の児童が殺害された付属池田小学校事件(2001年6月8日)。あれから、17年がたった。当時この学校に通っていた子供たちも、それぞれ大人になっている。
衝撃的な出来事を乗り越えて、社会貢献活動をしている人もいる。
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凶悪犯罪には厳罰を。多くの人がそう思う。しかし、この事件の加害者は、逃亡もせず逮捕され、一審で死刑判決後に控訴せず死刑が確定し、確定後は早く死刑執行せよと訴え、一年後に死刑になっている。このような加害者に、死刑はどんな意味があるのだろう。
彼は、精神鑑定を受け、「情性欠如」(人の心の痛みがわからない性格の歪み)「妄想性パーソナリティ障害」「妄想性障害」などと言われている。一般的に言って、妄想性障害者はしばしば親の愛を信じられずに育ち、大人になっても周囲の愛を信じられず、妄想的に周囲を疑ってしまう人々だ。彼らを犯罪者にしないためには、刑罰と共に支援が必要ではないだろうか。
児童8名が亡くなったこの恐ろしい事件で、多くの人が深く傷ついた。心理学的には、深い心の傷を癒していく一つの方法が、社会貢献活動だと言われている。それは安易に勧められはしない困難な作業だ。だからこそ、その困難に立ち向かっている方の活動をみんなで応援し、協力していきたいと思う。
<大教大池田小事件17年 重傷負った女性、幼児教育の道に 今なお鮮明な記憶>
死傷者が出た事件では、亡くなった方やご遺族だけではなく、怪我をされた方とご家族の長く困難な物語がある。体の後遺症に苦しむ方、心の後遺症(PTSD:心的外傷後ストレス障害)に苦しむ方。人生が変わってしまった方々の様々な苦しみがある。
犯人が逮捕されても、死刑が執行されても、事件が終わるわけではない。
犯罪被害者の心には様々な困難が襲ってくる。否認(現実を受け入れられない)、加害者への怒り憎しみ(事件直後は周囲も共感するが時間が経つと周囲との温度差もでる。また怒り憎しみが強すぎて前向きになれないこともある)、抑うつ、無力感、自己矮小感(自分が小さくなってしまった感じ)、恥(本当はそんな必要はないが)、自尊心の低下、恐怖、孤独感、そして様々な二次被害(心ないうわさ、好奇の目、失職、退学等)。
ときには、時間がたつほどに、人々が忘れていくほどに、辛くなることもある。
それでもときに被害者は、世のため人のための活動を始める。それは、少しずつ心を癒すのに役立ち、さらに成長する人さえいる(PTG:ポスト・トラウマティック・グロース:心的外傷後成長)。私たちも事件を忘れず、被害者に対する温かな関心を持ち続けたい。
■事件は防げなかったか
この事件では、これまでに前例のないことだが、加害者男性の精神鑑定の結果が出版されている。
加害者男性は、子供の頃から「問題児」だった。落ち着きのない多動で、いきなり道に飛び出したり、迷子になることも多かった。人の気持ちを理解することも苦手だった。
小中学生の頃には、弱いものいじめもひどかった。通常の意地悪を超えた悪質な行為が見られた。猫に火をつけるなど、動物虐待も見られた。親しい友達は誰もいなかった。
大人になるとさらに多くの症状が出てきた。被害妄想、嫉妬妄想、視線や音への過敏さ。4回結婚しているが、いずれも破綻している。父親によれば結婚生活ができる人間ではないという。精神鑑定によると、彼は金銭欲や性欲を満たすためなら手段を選ばなかった。何度も警察沙汰にもなっている。精神科にも何度も入院している。だが彼は何か不都合なことが起こると、いつも責任転嫁して人のせいにした。
気分の浮き沈みも激しかった。しかし、典型的な躁鬱病でもなく、統合失調症でもなかったと精神鑑定では述べられている。
「被告人は、いずれにも分類できない特異な心理的発達障害があったと考えられ、その延長線上に、青年期以降の情性欠如性格がある」と鑑定人は述べている。
彼はいくつもの仕事についているが、いずれも長続きしていない。事件の前には、金銭的にも生活全般上でも追い詰められていた。父親に援助を頼むが断られ、彼は自暴自棄になり、死を考え始める。そして、自分だけ死ぬのではなく、道連れを作ろうと思い、付属池田小学校を襲ったのだ。
犯罪防止のための支援
死を覚悟し、自分の人生もこの世界をも否定する人の犯行を止めることは難しい。刑罰の存在もあまり意味はない。だが、彼を支援することも、言うはたやすいが現実は難しかったろう。親でさえさじを投げたくなるのは、理解できなくはない。
もしも私がどこかで彼と関わっていたら、彼を支援する前に、生徒たちや同僚を彼から守ることを優先していたのではないかと思うほどだ。彼を支援するには、大きなエネルギーがいる。
しかし、彼の人生全てが破滅的だったわけではない。彼の第一印象を、真面目、きちんとしている、さわやかだったと語る仕事関係者や女性たちもいる。いずれも、のちに彼にひどい目にあうのだが。仕事を辞めるのも、能力自体がないわけではなかったが、トラブルは絶えなかった。
彼は人の視線が気になり、人を疑わないではいられなかった。だがその感情をとても乱暴な形でしか表現できなかった。彼が実は困っていたことに、周囲はなかなか気づけなかっただろう。
彼は、弱いものいじめはしたが、上の者、強い者には従う面もあった。上の者に反発して食ってかかる当時の不良たちとは違っていた。上下関係がしっかりしていたり、母親的に保護してくれたりする人がいた時期には、彼は比較的安定していた。
彼を支援するためには、優しさだけでは不十分だったろう。カウンセリング的な受容的態度、傾聴し共感する態度だけではだめだったろう。同時に頭ごなしの説教も、警察力だけでも、不十分だったろう。
父親的な強さと母親的な抱擁の両者の絶妙なバランスが必要だったのかもしれない。薬で症状を抑えるだけでなく、入院しての社会行動訓練が必要だったのかもしれない。警察と病院と福祉と地域と家族との、もっと深い連携が必要だったのかもしれない。
彼を支援することは難しかった。事件後もついに最期まで謝罪の言葉が出なかった情性欠如が治ることもなかったかもしれない。ただ、彼が自分の死を望むほどに人生に絶望しなければ、事件は起きなかったかもしれないのだ。