樋口尚文の千夜千本 第166夜 『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』
「個」のかけがえのなさを思い知らされる詩篇
これは庵野秀明という「個」の壮大な独り言である。あくまで独り言であり、また性急に核心に向うところがあるので、細かいところでわからないことはあるのだが、そんなことがまるで気にならないほど驚くべき映像の語彙が熱っぽく披瀝され、まずはそれだけでも強烈に惹きつけられるものがある。
しかもそのただならぬ語彙量と勢いには「引用の織物」的なエディット感覚(ここでその曲来ましたか!!的な)も充満しており、それゆえに全体が空洞の伽藍のような虚無感もじわじわと漂ってくる。つまり、この途方もない饒舌はあまりにも面白くて時間を忘れるほどなのだが、一方では巨大なハリボテのような凄まじさを呈してくる。
ところが、こうした方法的な次元、フォルムの次元においては驚嘆すべき語彙の嵐を通してニヒルさ、怜悧さが際立ってくる一方で、この独り言の醸す感情面については信じがたく直球であり、生(なま)であり、純情である。このニヒルな饒舌の洪水と、そこから漏れいずる素朴過ぎる純情とのギャップに幾度も不思議な落涙を禁じ得なかった。
そんな特異な魅力に富む「詩篇」が大河のごとき『エヴァ』サーガであるとすれば、それが実は庵野秀明が自分にオトシマエをつけるために、自分という「個」のためにうたってきた独り言なのだと表明する(といったことに今日までつき合わせてごめんなさい、とでも言われているような)ラストカットには妙に得心がいくのだった。逸脱と迂回と増殖を間欠的に反復してきた騒然たる展開と試行の数々は、ごく静謐に庵野秀明という「個」に回収された。
そしてかくも風変りで特殊な「個」の独り言になぜこんなに膨大な観客が集まるのか。本作はやはり映画の面白さの核心は「個」の思いや着想にこそ由来するのだということを暗に裏づけながら、割り出された「需要」にすり寄らんとして即製された凡百の魂なき映画を無言のうちに、しかし痛烈に撃っているとも言えよう。