【将棋史再発見】佐藤大五郎八段はなぜ中原誠名人を相手に10手で投了したのか?
本稿は、以下の記事の続編です。
【将棋史再発見】10手での投了が「プロ棋士らしからぬ棋譜」として戒告処分された過去(松本博文)
前回記事を要約すると、以下のようになります。
・1974年8月、棋聖戦本戦トーナメント1回戦で、佐藤大五郎八段(後に九段)は中原誠名人(現16世名人)と対戦した。
・佐藤八段はなぜか、名人には通用しないであろう「はめ手」の鬼殺し(おにごろし)の出だし数手を指した。
・中原名人は時間を使って慎重に対応。
・佐藤八段は模様がよくないものの、まだ大きく形勢を損ねたわけでもない段階で、突如投了。
・総手数はわずかに10手。あまり名誉とは言えない、公式戦史上最短手数記録を残す。
・対局からしばらくして「佐藤大五郎は『名人に対して失礼な指し方をした』と反省して投了した」という伝説が広まり、後世に伝わる。
・対局直後の文献を見た限りでは、そうした伝説に関する記述は見られない。また佐藤八段自身が「名人に失礼」という趣旨の発言をしたかどうかも、確かめられない。
・「サンケイ新聞」に掲載された佐藤八段の対局後のコメントによれば、当日朝から頭痛だった。(病気なのか、二日酔いなど不摂生によるものかは不明)
・佐藤八段は病院に寄って注射を打ってもらうなど、治療を受けたために遅刻。対局中にも治らず、我慢ができなくなったので投了したという。
・事態を重く見た将棋連盟は佐藤八段から始末書を取り、「二度とこのようなプロ棋士らしからぬ棋譜を残さないよう」戒告した。(他にも戒告の理由があったのかは不明、また具体的に何らかのペナルティが課されたのかも不明)
加藤治郎名誉九段の証言
その後筆者は、『将棋戦法大事典』(1985年刊)に掲載されている「鬼殺し」の項目を目にして、以前まで知らなかった経緯を知りました。
それを記す前に、当時の時代背景に触れながら、少し回り道をしていきます。謎解きの伏線となりますので、しばらくお付き合いください。
『将棋戦法大事典』の「鬼殺し」の項目は加藤治郎名誉九段(1910-1996)が執筆されています。
中原-佐藤戦の対局があった際、加藤名誉九段(当時八段)は観戦記の担当でした。しかしわずか10手で終わってしまったために、その観戦記が掲載されることはありませんでした。(中原-佐藤戦の棋譜は他の対局の観戦記の中で紹介されました)
加藤名誉九段は『将棋戦法大事典』に以下のように記しています。
長年にわたって将棋界を見続けてきた加藤名誉九段がこれだけ驚いているのですから、佐藤八段の作戦選択が、いかに横紙破りなものだったか、わかろうというものです。
加藤名誉九段は早稲田大学出身で、戦前には珍しい大卒棋士でした。七段時には「朝日番付戦」において、木村義雄名人とともに横綱の地位を占めるほどの実力者でもあります。戦後に順位戦が創設された際にはA級八段の地位にありました。
しかし1949年、A級から陥落したこと、さらには後進に升田幸三、大山康晴という超弩級が台頭してきたこともあり、現役引退を決意します。そのとき38歳という若さでした。
加藤名誉九段は戦前から将棋連盟の運営に携わり、戦後は機関誌『将棋世界』の編集長となり、新聞紙上で多くの観戦記を執筆するなど、盤外でも活躍を続けました。多くの将棋用語の名付け親でもあり、著書『将棋は歩から』などはロングセラーとなりました。
加藤名誉九段は将棋連盟会長を2度ほど務めています。
1度目は1957年から61年まで。
2度目は1973年から74年まで。
中原誠名人-佐藤大五郎八段戦の観戦記を担当していたちょうどこの頃、加藤名誉九段(当時八段)は会長職を辞めたばかりでした。
1974年当時の将棋連盟
以下、いつの時代でも、将棋連盟の運営にも携わりつつ、現役生活を続けるトップクラスの棋士は大変、という話になります。
1974年当時、東京・千駄ヶ谷の将棋会館は、木造2階建でした。
73年。2度目の会長職に就いた加藤治郎八段と理事会にとって、最重要課題は新しい将棋会館の建設でした。ところがその方針をめぐって、棋士の間では意見がわかれ、もめにもめることになりました。当時の騒然とした状況については、元将棋連盟会長の渡辺東一名誉九段や、その弟子で当時渦中にいた二上達也九段なども、詳細に記しています(本稿では省略します)。
加藤会長の愛弟子で副会長を務め、ともに退陣した原田泰夫九段(1974年当時は八段)はこう述べています。
加藤会長以下、理事会は総退陣を余儀なくされ、代わりに新理事会が発足しました。
新理事会のメンバーは、会長が塚田正夫九段(名誉十段、元名人)。副会長が大山康晴十段(棋聖)と中原誠名人(王将、王位を併せて三冠)。さらには二上達也九段、米長邦雄八段、有吉道夫八段、内藤國雄八段。当時の錚々たるトップ棋士たちが、ずらりと顔を並べています。
しかし理事職を務めることは、現役棋士、それもトップクラスでよく勝つ棋士にとっては、明らかにマイナスとなります。それは昔も今も変わらないコンセンサスのようです。
1974年当時、理事を辞めさせられた側の原田八段は、どう思ったか。
新理事会は現役の大物棋士ばかりが揃った。しかし、将棋で飛車角の大駒ばかり集めても必ずしもうまくいかないことがあるように、新理事会も当初はうまく機能しませんでした。
新理事会は後に実務家の原田八段に頭を下げ、副会長として理事会に復帰してもらうことになります。
副会長にされた中原名人は、当時26歳です。年齢という点では、現在の斎藤慎太郎王座(26歳)や永瀬拓矢叡王(26歳)と同じ。若くして名人を含む複数冠を保持している点では、豊島将之名人(王位・棋聖、29歳)と同じでしょうか。
もし2019年現在、対局で多忙を極める豊島名人に「新しい将棋会館建設のため、副会長の立場で理事職も務めてください」ということになれば「そんな無茶な」と感じる人が多いのではないでしょうか。
1974年当時、大山十段が連盟副会長で新将棋会館の建設委員長だった時。同じ副会長で理事の中原名人自身はどう思っていたでしょうか。
大山康晴15世名人や中原誠16世名人などの苦労もあって、1976年、現在の鉄筋コンクリート5階建ての将棋会館は建設されました。
四十数年の時を経て、2019年。老朽化した現在の将棋会館から、新たに近くの商用施設に移転する案が棋士総会で可決されました。
現在、「会館建設準備委員会」の委員長を務めているのは、羽生善治九段です。時代のトップ棋士が重大な問題の先頭に立って活動する。そうした将棋界の伝統は、現代でも守られたということになりそうです。
短手数投了と盤外の事情
以上は「10手投了」の事件が起きた当時、中原名人がどういう立場にあったかを知っていただくための、長い伏線でした。
加藤治郎名誉九段は「人騒がせな十手局」と見出しをつけて、佐藤大五郎八段の早投げについて、こう記しています。
以上が筆者が新しく知った経緯です。
加藤名誉九段が書いていることが事実ならば、まずは中原名人が気の毒と思うよりありません。棋士は何よりも対局が大事なはずです。その対局中にまで緊急理事会という公務が降ってくるとは。名人にしてみれば、どのような思いがしたでしょうか。
最終手となった△4二玉の一手に、中原名人は52分も使っています。
「さすがは名人。『はめ手』に対しても慎重に時間を使って考えるもの」
筆者は棋譜を見て思ったのですが、もしかしたら離席の時間なども含まれていたのでしょうか。あるいは、理事会となれば公務です。その間、対局は中断され、時間の消費も止められていたのかどうか。
中原名人は対局中、緊急理事会出席のため離席していた。そのことも影響し、もとより頭痛で体調不良だった佐藤八段は対局する意欲を失い、投了することになった。もしそうであれば、佐藤八段の側にも言い分はありそうです。
対局中、離席は自由とされています。自分の手番の間に席についていなければ、ただ持ち時間が減っていくだけです。
しかしマナー的に、あまりに長時間、あまりに頻繁な離席はいいものではない、という考えの人もいます。あるベテランと若手が対局した際、若手があまりに頻繁に席を立つので、ベテランが気分を害して、対局後に感想戦をしなかったという例もありました。
いずれにせよ、この最短手数局は、盤外の要素があまりに多かった、ということは間違いないようです。そしてそれらは「名人に対して失礼な指し方をしたから投了した」という伝説からは、だいぶ離れた話となりそうです。
将棋の盤上の推移は、盤外の事情を色濃く反映することもあります。本局の場合は、当時の将棋界の事情を多分に反映したものと言えなくもなさそうです。
中原名人自身は、本局をめぐる盤外の事情についてどう思っていたのか。それを示す記述は、筆者はまだ目にしたことがありません。
代わりに名人は、きわめて真摯に、「はめ手」とされる鬼殺しの対策について、こう述べています。
△6二銀から△5四歩の代わりに、△6二金や△6四歩などが、アマチュア向けにわかりやすく解説される定跡です。もし上級者がよりよさを求めるのであれば、名人が示した構想の方が優る、ということでしょうか。
以上、ここまでは主に文献上からたどった経緯でした。対局者の一人である佐藤大五郎九段は、既に亡くなられています。最終的には、もし中原誠16世名人に当時の状況をうかがうことができれば、本局に関する一連の調査は完成ということになりそうです。