小牧・長久手の戦いで戦死した、羽柴(豊臣)秀吉方の3人の武将とは?
いかに万全な準備を整えていても、失敗することは珍しくない。羽柴(豊臣)秀吉は小牧・長久手の戦いで万全な準備を整え、徳川家康・織田信雄連合軍と戦ったが、名のある3人の武将を失ったので、その面々を紹介しよう。
◎池田恒興(1536~1584)
恒興は織田信長に仕えていたが、その死後は秀吉に従った。天正10年(1582)の清須会議では秀吉に与同すると、のちに大垣城を本拠とし、13万石を与えられた。天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでは、秀吉方として出陣した。
長久手の戦いでは奮戦したが、恒興は永井直勝に槍で突かれて戦死した。恒興を討った直勝は、家康と信雄から大いに軍功を賞賛された。なお、秀吉は徳川・織田連合軍に勝利した場合、恒興に尾張一国を与えるつもりだったという。
◎森長可(1558~1584)
長可は可成の子で、信長に仕えた。天正10年(1582)3月の甲州征伐で活躍し、信長から信濃4郡と海津城を与えられた。本能寺の変後は本拠の美濃に帰還し、秀吉に従った。小牧・長久手の戦いでは、秀吉の味方として出陣したのである。
長久手の戦いで、長可は水野正重配下の杉山四郎左衛門(孫六)に狙撃され、戦死した。長可は出陣する前に遺言状を認め、娘は医者に嫁がせるのがよく、武士の妻にしてはいけないと書き残したという。長可が戦死したとされる場所には、武蔵塚が建てられた。
◎池田元助(?~1584)
元助は恒興の子で、父とともに信長に仕えていた。有岡城の戦いでは軍功を挙げ、信長から名馬を与えられた。以降、元助は秀吉に従って転戦した。本能寺の変後は父に代わり、伊丹城に入った。その後、岐阜城主になったのである。
長久手の戦いで、元助は父とともに秀吉方として出陣し、家康配下の安藤直次に討たれた。元助が戦死したとされる場所には、「庄九郎塚」が建てられた。庄九郎とは、元助の幼名である。