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落合博満監督の大失敗――2005年の負けから学んだこと【落合博満の視点vol.17】

横尾弘一野球ジャーナリスト
落合博満監督は8年間で4回優勝したが、2005年に負けたことは忘れられない。(写真:ロイター/アフロ)

「何でもいい。私が采配や選手起用を間違ったと感じたことがあれば、はっきり言ってくれないか」

 2005年のシーズンを終えたあと、落合博満は真剣な眼差しでそう言った。2004年のリーグ優勝で世間をあっと言わせた中日ドラゴンズは、球団史上初の連覇を狙って2005年のペナントレースに臨み、開幕からロケットスタート。ゴールデンウィークが終わるまでに貯金11で、2位の阪神には、すでに5ゲーム差をつけた。落合も内心「ぶっちぎり優勝もできる」と感じていたが、5月5日のヤクルト戦でタイロン・ウッズが暴力行為で退場となり、10試合出場停止の処分を受ける。すると、四番を欠いて迎えたセ・パ交流戦で8勝10敗と負け越し、首位の座を阪神に明け渡してしまう。

 7月には最大8ゲーム差をつけられたものの、12日の巨人戦から1引き分けを挟んで11連勝、8月21日の横浜戦から7連勝して阪神を猛追する。そうして、3ゲーム差で迎えた9月6日からナゴヤドームでの2連戦で先手を取り、2ゲーム差で7日の第2戦に臨む。

 先発の川上憲伸が、4回表に金本知憲に先制ソロを許すも、7回裏二死から代打の森野将彦が四球を選び、谷繁元信の二塁打で一気に生還。阪神も8、9回に1点ずつを奪って逃げ切ろうとするが、9回裏にアレックス・オチョア、森野の連打で無死二、三塁と守護神の久保田智之を攻め立て、野選と犠飛で再び3対3の同点とする。

 そして、延長10回裏に先頭の福留孝介が二塁打を放ち、無死二塁とサヨナラのお膳立てをした場面だった。落合はアレックスにノーサインで打たせ、ショートゴロで福留を進められない。業を煮やした福留が三盗を試みたが、タイミングはセーフもアウトの判定でチャンスは潰れてしまう。果たして、11回表に中村 豊の決勝弾で阪神が勝ち、ここから中日はズルズルと後退してしまったのだ。

川相をベンチに残したまま負けるなんて下手な野球だ

 それまでの落合の戦い方を考えても、10回裏無死二塁は、アレックスに代打・川相昌弘で送りバントではなかったか。続く森野や谷繁には犠飛を打てる力があるし、福留が三塁走者なら阪神バッテリーにかかる重圧も大きいはずだ。そんな内容を、率直に落合に伝えた。

「そうだな。試合後に冷静になった時、自分でもそう反省した。川相をベンチに残したまま負けるなんて下手な野球だ」

 ほかの人にできて自分にできないことはない、目指す監督像はない――監督に就任した時から、落合はメディアの前では不敵な態度しか見せなかった。しかし、その裏では懸念することがあれば森 祇晶ら監督経験者の先輩に相談するなど、常に聞く耳を持って監督業と向き合っていた。

「仕事をする上で何かが上手く運ばなかった時は、ひとりでも多くの人から意見や見方を聞いておくべき。そのほうが、課題を克服するヒントを得られる確率が高くなるからね」

 のちに、この時のことを原稿に書く際、「落合はチームのためならプライドも捨てる」と表現した。それを読んだ落合は笑い飛ばして、「おまえに意見を聞くのが、プライドを捨てることとは思わない。勝つためなら、どんな人間でも利用する。ただ、それだけのことだ」と語った。

 振り返れば、落合はレギュラーになった20代後半の頃、試合後には稲尾和久監督に呼び出され、グラスを傾けながら試合の反省会をしていた。

「あそこは手堅くバントでいくべきだったでしょう」

 そうやって、自分の意見を遠慮なく口にする落合に対して、稲尾監督は「監督は俺だぞ」と言いながら、じっと耳を傾けていたという。その体験からも、落合はこう言う。

「組織の上に立った時、裸の王様になりたくなかったら、いかに人の話に耳を傾けられるかだ。特に、自分と反対の意見を持つ人間は大切にすべきだろう」

 悔しさを晴らそうと迎えた2006年、さらに力をつけた阪神を振り切り、中日が圧倒的な力でペナントを奪還したのは周知の通りだ。そして、落合監督の輝かしい戦績は、この2005年の負けがあったからこそ、と言っても過言ではないのかもしれない。

野球ジャーナリスト

1965年、東京生まれ。立教大学卒業後、出版社勤務を経て、99年よりフリーランスに。社会人野球情報誌『グランドスラム』で日本代表や国際大会の取材を続けるほか、数多くの野球関連媒体での執筆活動および媒体の発行に携わる。“野球とともに生きる”がモットー。著書に、『落合戦記』『四番、ピッチャー、背番号1』『都市対抗野球に明日はあるか』『第1回選択希望選手』(すべてダイヤモンド社刊)など。

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