【将棋クロニクル】1950年創設「王将戦」の名称を考えたのは誰か?
王将戦は毎日新聞主催の棋戦として創設されました。
1950年度、第1回王将戦で優勝したのは木村義雄名人(1905-86)です。
翌51年度からはタイトル戦となり、第1期王将位には升田幸三八段(1918-91)が就いています。
王将戦創設の歴史的経緯から指し込みの制度などについて詳しく書き始めると、おそろしく長くなります。本稿では「王将戦」という名称は、誰が考えたのかについて、手短にまとめてみたいと思います。
(1)毎日新聞社内での公募説
最初に結論を述べておくと、なにか改めて決定的な文献上の資料でも発掘されない限り、誰が王将戦と名付けたかについては、確たる証拠はないようです。
その上で、毎日新聞の山村英樹記者は次のように記しています。
長く戦後の将棋界の中枢にあった大山十五世名人、丸田九段の証言というのは説得力があります。
棋戦主催社内ではなく、一般の人からの公募で棋戦の名称が決められた例としては近年の「叡王戦」「加古川青流戦」などが挙げられます。
(2)楠山義太郎説
王将戦創設時に毎日新聞で将棋担当だった村松喬(1917-1982)は著書『将棋戦国史』で次のように記しています。
村松記者の聞いた話では、編集主幹・楠山義太郎(1897-1990)が王将戦という名称を考えた、ということになります。
(3)木村義雄説
毎日新聞の前身である「東京日日新聞」時代に実力制名人制創設に尽力し、また王将戦創設時の交渉過程にも立ち会った黒崎貞治郎(1903-75)は著書で次のように記しています。
木村名人ならいかにも言いそう・・・という感じもしますし、本当にそんなこと言うかな、という感じもします。
北条秀司作の戯曲『王将』は阪田(坂田)三吉(1870-1946)をモデルに書かれました。初演は1947年。よって王将戦創設(1950年)の後に書かれた、というのは時系列的には誤りです。
参考までに、1948年当時の文献には次の記述があります。
(備考)戯曲『王将』に由来するという説
王将戦でも多くの観戦記を書いた観戦記者の倉島竹二郎(1902-86)は著書に次のように記しています。
倉島記者は最初そう思ったらしいです。なおこれは倉島記者だけではなく、他の人たちからも、「王将戦」という名称には違和感を覚えたという旨の記述はいくつも残されています。
ただし倉島記者は次第に王将戦の名称が「魅力的」に感じられるようになり、「名称を疑問視した不明を恥じ」たそうです。「王将戦」という名称はほどなく定着し、現在までに続く伝統ある棋戦となりました。
さて時系列で考えれば倉島記者が推測したように、評判となった戯曲『王将』が新棋戦の名称の由来の一つとなった、と考えるのは自然かもしれません。
なお阪田三吉は没後の1955年、名人位とともに、生前には存在しなかった王将位を追贈されました。