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先に戦いを仕掛けたのは大坂本願寺だった! 誤解が多い織田信長の10年戦争

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
織田信長。(提供:アフロ)

 大河ドラマ「どうする家康」では、織田信長と大坂本願寺の戦いが省略された。これまで、先に戦いを仕掛けたのは信長だと言われてきたが、誤解があるようなので検討しよう。

 元亀元年(1570)9月、信長は大坂本願寺と戦い、戦争は約10年に及んだ。当時、一向宗は大きな力を持ち、加賀を支配するなどしていた。大坂本願寺が信長に戦いを挑んだことは、武家権力への挑戦と捉えられた。

 逆に、信長は宗教弾圧のため、大坂本願寺の殲滅を最終目標としたという。しかし、信長が宗教嫌いというのは大きな誤解で、先に戦いを仕掛けたのは信長ではない。以下、経緯などを確認しておこう。

 元亀元年(1570)9月、大坂本願寺と足利義昭・織田信長は戦闘状態に入った。これまで、本願寺顕如は信長からさまざまな無理難題を要求され、追い詰められたので挙兵したとされるが、誤りであると指摘されている。

 実際は、顕如が「打倒信長」を促す檄文を諸国の門徒に送り、決起を呼び掛けたのが先である。驚いた義昭は朝廷に依頼し、蜂起の中止を要請したほどだ。つまり、先制攻撃を信長に仕掛けたのは、大坂本願寺側だったのである。

 信長は大坂本願寺が突如として攻撃してきたので、驚倒したと伝わっている。それだけでなく、大坂本願寺は甲斐武田氏ら有力大名との協力関係を築き、「打倒信長」に激しい執念を燃やしたのである。

 天正元年(1573)に信長と義昭の関係が決裂すると、大坂本願寺は義昭を仲間に引き込んで信長に対抗した。ところが同年、大坂本願寺が頼る朝倉氏、浅井氏が信長に敗北したので、最初の和睦をした。

 天正2年(1574)1月に越前一向一揆が挙兵すると、再び大坂本願寺は信長に戦いを挑んだ。しかし、同年に伊勢長島(三重県桑名市)の一向一揆が、続けて越前一向一揆も敗北したので、大坂本願寺は信長に再び和睦を申し込んだ。

 天正4年(1576)、義昭をいただいた毛利氏が信長に戦いを挑むと、大坂本願寺も与同したが、4年後の天正8年(1580)に信長に屈した。戦後、信長は教団の存続を認めることを条件にして、大坂本願寺は大坂の地を去った。

 信長は無神論者(あるい無宗教)だったから大坂本願寺と戦ったのではなく、相手が挙兵したから応戦したに過ぎない。信長に宗教弾圧の意図があったならば、教団の存続を許さなかったはずである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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