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大津城の戦いで敗北するも、戦いぶりを徳川家康から評価された京極高次

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康。(提供:イメージマート)

 昨今では、明智光秀の居城・坂本城(滋賀県大津市)が発掘され注目されているが、忘れてはならないのが大津城(滋賀県大津市)主の京極高次である。

 慶長5年(1600)に関ヶ原合戦が勃発すると、高次は大津城に籠城したが、押し寄せる西軍に敗れた。ところが、徳川家康はその戦いぶりを評価したので、その間の経緯などを取り上げることにしよう。

 慶長3年(1598)の豊臣秀吉の没後、京極高次は徳川家康に急接近した。高次を受け入れた家康は、大津城が破損していることを知り、修繕費用として白銀30貫文を与えた。家康は、京都への入り口となる大津城が重要な拠点になると考えたのだろう。

 しかし、慶長5年(1600)に石田三成ら西軍の諸将が家康に対して挙兵すると、高次は西軍に与し、東軍に与した前田利長を牽制すべく2千の兵を率いて出陣した。西軍には、人質として子の熊麿(のちの忠高)を送っていた。

 三成は高次に大津城を明け渡し、兵を置くことを要請したが断られた。8月23日に西軍の織田秀信の籠もる岐阜城(岐阜市)が陥落すると、高次は態度を変えて近江へ引き返した。岐阜城の落城は、まったくの想定外のことだったのだろう。以後、高次は、弟の高知と連絡を取りながら状況を見定めた。

 9月3日、高次は大津城で籠城の準備を進め、東軍へ寝返った。この事実は、ただちに西軍に伝わった。同日、高次は家康に密書を送り、内応することを伝えた。淀殿(高次の正室である初の姉)は使者を派遣し、何度も高次に翻意を促したが、ついに説得工作は失敗したという。

 9月12日、西軍は立花宗茂、毛利元康、毛利秀包、筑紫広門、宗義智ら九州の諸大名を大津城に向かわせて攻撃した。その兵力は、約1万5千という大軍だった。西軍が大津城に大砲を撃ち込むと、たちまち天守が大破するなどした。

 砲撃を受けた大津城内では、高次の姉・寿芳院が気絶し、2人の侍女が砲撃の巻き添えで亡くなるなど、激しい攻防戦となった。城内は恐怖に包まれ、厭戦ムードが漂ったものの、高次は徹底抗戦の構えを崩さなかった。

 9月14日、西軍は僧侶・木食応其を大津城に遣わし、高次に降伏を求めた。すでに高次には劣勢を挽回する余力はなく、家康に援軍を求めることも困難になっていた。

 高次には抗戦する意思があったものの、ついに西軍の降伏勧告を受け入れたのである。東軍が関ヶ原合戦で勝利したのは、翌日の15日のことだった。

 西軍に降伏した高次は、その日のうちに三井寺(滋賀県大津市)に入り出家した。その後、高野山へ向かったが、家康は高次が大津城で西軍の軍勢を食い止めたことについて高く評価していた。家康は高野山へ使者を送り、高次に出仕を求めたが、高次は家康の求めを拒否した。

 ところが、やがて家康の説得に心が動き、高次は要請を受け入れた。高次は若狭小浜(福井県小浜市)に8万5千石を与えられ、破格の扱いで処遇された。こうして高次は、表舞台に復帰したのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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