【戦国こぼれ話】本能寺の変で横死した織田信長。その後、子孫はどうなったのだろうか
2022年1月に放送予定のテレビアニメ「錆色のアーマ ―黎明―」のメインキャラクターは、織田信長というから楽しみだ。ところで、本能寺の変で信長が横死して以後、織田家はどうなったのだろうか。
天正10年(1582)6月、織田信長は本能寺で明智光秀に急襲され横死した。同時に子の信忠も亡くなったが、ここで織田家が滅亡したわけではない。
■織田有楽斎(長益)の家系
織田有楽斎(長益)は信長の弟で、天文16年(1547)に誕生した。信長の死後、有楽斎は豊臣秀吉に仕え、御伽衆になった。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では東軍に属し、徳川家康から大和国内に3万石を与えられた。
有楽斎が亡くなったのは、元和7年(1621)12月13日である。東京の有楽町は、有楽斎(東京都千代田区)の屋敷のあった場所として知られている。
有楽斎の長男・長孝は関ヶ原合戦で活躍し、軍功を認められて野村藩(岐阜県大野町)主となった。
長孝が慶長11年7月5日に亡くなると、子の長則が跡を継いだ。しかし、長則が寛永8年(1631)7月4日に病没すると、子がなかったので改易となった。
有楽斎の次男・頼長は、大坂の陣で豊臣方に与したが、戦中に大坂城を退去。処罰は免れたが、大名になることはなく、元和6年(1620)9月20日に亡くなった。子に長好がいたが、慶安4年(1651)に亡くなり、絶家となった。
有楽斎の三男・俊長は出家して僧侶となり、妙心寺大雲院(京都市右京区)に住していたが、のちに還俗。寛永19年(1642)8月2日に没した。俊長には長次という一子がいたが、その生涯は不明である。
有楽斎の四男・長政は、元和元年(1615)8月に父から大和・摂津国内に1万石を分与された。これが芝村藩(奈良県桜井市)のはじまりである。
以降、芝村藩は幕末まで続き、最後の藩主・長易は明治2年(1869)に芝村藩知事となった。戊辰戦争に際しては、幕府軍、新政府軍のいずれに与するのか、態度を鮮明にしなかったという。
有楽斎の五男・尚長は、元和元年(1615)8月に父から大和国内に1万石を分与された。これが柳本藩(奈良県天理市)のはじまりである。
柳本藩も幕末維新期まで続き、最後の藩主・信及は新政府側に与し、柳本藩知事になったのである。
■織田信包の家系
信長の弟・信包は、兄に従って各地を転戦。信長の死後は、豊臣秀吉に仕え、伊勢津(三重県津市)に所領を与えられた。
しかし、のちに秀吉から改易され御伽衆になり、慶長3年(1598)に丹波柏原(兵庫県丹波市)に3万6千石を与えられた。これが柏原藩のはじまりである。
なお、信包流は信勝が継嗣なきまま慶安3年(1650)5月17日に死去し、断絶となった。後述するとおり、高長(信雄の五男)系の信休が柏原藩主となる。
■織田信雄の家系
信長の死後、次男の信雄は、尾張、伊賀、南伊勢に百万石を与えられた。しかし、天正18年(1590)の小田原征伐後、家康の旧領への移封を拒否。秀吉から改易された。
その後、出家して常真と名乗ったが、家康のとりなしによって、秀吉の御伽衆に加えられた。大坂の陣後、家康から大和国宇陀、上野国甘楽、多胡、碓氷郡に5万石を与えられた。
信雄の長男・秀雄は、文禄元年(1592)に秀吉から越前大野(福井県大野市)に5万石を与えられた。関ヶ原合戦では西軍に属し改易。慶長15年(1610)8月8日に亡くなり、子がなかったため断絶した。
信雄の四男・信良は、元和3年(1617)以降に父から上野甘楽郡に2万石を分与された。これが小幡藩のはじまりである。
最後の藩主・信邦は、明和3年(1766)の明和事件により失脚。自身は天明3年(1783)7月8日に亡くなり、絶家となったのである。
信雄の五男・高長は、父の改易後に細川家、前田家に身を寄せていた。寛永7年(1630)に信雄が亡くなると、大和宇陀松山(奈良県宇陀市)3万石を継承した。
藩主・信休は、先述した無嗣断絶の信勝の代わりに柏原藩主となる。最後の藩主・信親は、早い段階から新政府軍に味方し、戦後に柏原藩知事に就任した。
信雄の六男・信為は寛文6年(1666)10月9日に没、七男・良男は元和2年(1616)10月25日に没。その生涯は詳らかではない。
なお、信長の三男・信孝、信忠の嫡男・秀信は戦いに敗れるなどし、それぞれ絶家となった。織田家が存続したのは決して家名だけではなく、懸命に生き残りを図り、絶えざる努力をしたからだろう。