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和歌山カレー事件・林眞須美さんから届いた最新の手紙

篠田博之月刊『創』編集長

1998年に夏祭り会場のカレーに毒物のヒ素が盛られて多くの死者を出した和歌山カレー事件で死刑判決を受け、再審請求中の林眞須美さんから手紙と電報が届いた。電報といっても正確には電子郵便(レタックス)だ。私から送った郵便物が届いたというお礼状なのだが、それをわざわざ電子郵便で送って来たのは、彼女が郵便物を受け取ったという喜びを示すものかもしれない。私から送った郵便物というのも、彼女から依頼された書類のコピーと時候の挨拶だけなのだが、この手紙のやりとり自体が、実は意味を持っている。

それは彼女が確定死刑囚だからだ。通常、確定死刑囚は、家族と弁護士以外、面会も手紙のやりとりも制限されており、彼女の場合は、知人とのやりとりは不許可にされている。それを不服として彼女は何度も法務省を相手に裁判を起こしているのだが、今回、彼女は自分なりに考えて外部との手紙のやりとりが可能かどうか確かめたように思える。今回、同様の手紙は何人もの人に送られているが、中に彼女が関わっている裁判の資料が同封されており、それをコピーして返送してもらえないか、というメッセージが書かれている。私はその通りに返送したところ、無事それが届いたというお礼が電子郵便で来た、というわけだ。

一般の人には、それがどの程度の意味を持つのかわかりにくいかもしれないが、彼女を始め多くの確定死刑囚にとって大きな問題は、未決の間はやりとりできた外部との手紙や面会が、刑の確定後、事実上禁止されてしまうことだ。つまり、死刑が確定した人は、外界との接触を断たれてしまう。眞須美さんにとって、それはかなりの精神的苦痛と言える状況だ。ちなみに私が12年間も接触していた連続幼女殺害事件の宮埼勤死刑囚(既に執行)の場合も、接見禁止の措置は大きな問題で、私との接見交通権を確保するためにいろいろな努力を重ねたものだ。

法的には死刑が確定した日から半年以内に刑が執行されることになっており、確定死刑囚は執行を待つ立場だから、確定した時点で外部との接触を断ってしまう、というのが日本の法務当局の考えらしい。だから、その死刑囚たちがどういう日々を送っているかは、以前はほとんどタブーとして外部に知られることがなかった。

確定死刑囚の場合、刑の執行は当日まで本人には知らされず、その朝、刑務官が迎えに来た時に初めて本人が自分の死期を認識する。このやり方については賛否の議論が以前からなされている。目がさめた瞬間に、今朝はもしかしたら執行ではないかと毎日怯えながら朝を迎えるという生活が、精神的に耐えられないという人もいる。 

眞須美さんは2009年4月21日に最高裁で上告が棄却され、死刑が確定するのだが、私が最後に接見したのは5月1日だった。最高裁判決が出ても手続き上、一定期間は接見が可能なのだ。面会室で彼女は何度も「篠田さん、助けて下さい」と訴え、こう述懐した。「朝、連れ出されることがわかって、えっこんなに早いの?と口にしたところでうなされて目をさます。そんな夢をしょっちゅう見るんです」

私はこれまで何人もの死刑囚とつきあってきたが、死刑判決をどう受け止めるかは人それぞれだ。今も無実を訴えている眞須美さんは死刑への恐怖を口にすることが多かった。同じ大阪拘置所で死刑が執行される時は、朝からいつもと様子が違うので、あっ、きょうは死刑が執行されるのではないかと思っていると、ヘリコプターが上空を旋回している音が聞こえて、それが確信に変わる。そういう話を第2審の頃から手紙に書いて来ていた。

彼女は逮捕後、事件については黙秘を貫いたためか7年間も接見禁止という異常な処遇を受け、それが解除されたのは2審の判決が出される2005年のことだった。私は事件のあった1998年から、林夫妻の自宅をマスコミが24時間包囲して張り込むという集団的過熱取材を『創』で批判していった関係で、何度も自宅を訪れるなどしてきたが、逮捕前日に電話で話したのを最後に、7年間、接触ができなかった。その後、再会を果たしてからは頻繁に手紙や接見を繰り返し、『創』に彼女の手記を頻繁に掲載。それらの手紙は昨年、『和歌山カレー事件 獄中からの手紙』という書籍にして創出版から刊行している。

死刑が確定してからは前述したような事情で接見は一度もできていないのだが、彼女の家族を介するなどして手紙は何度かもらい、それも『創』に掲載して来た。

接見禁止に対する彼女の当局への異議申し立ては何度もなされており、私も今年になって、拘置所長に彼女の著書出版に関して必要だからという理由で特別接見許可願を出したりした。実は、宮崎死刑囚の時は、ちょうど彼の2番目の著書『夢のなか、いまも』を死刑確定直後に出版したため、その業務上打ち合わせが必要だからと東京拘置所長に認められ、私は死刑が確定した後も何度か接見ができていた。しかし、大阪拘置所は眞須美さんとの接見については、頑なに家族・弁護士以外の接見を認めようとしていない。

今回、彼女から届いた、裁判資料をコピーするためにという依頼の手紙は、そういうケースなら手紙のやりとりが許可されるのでは、という彼女の思いからなされたものだろう。結果的に手紙のやりとりは成立した。ただその手紙にはもちろん、許可された用件以外のことを書き記した場合は、不許可になるか墨塗りされる。自由な手紙のやりとりとは異なるのだが、でも手紙のやりとりができたことだけでも眞須美さんにとっては大きな出来事だったのかもしれない。

権利が制限されることに対して、それを受け入れるのでなく、異議申し立てしようという眞須美さんの姿勢は、彼女の気の強い性格に負うところはもちろんあるが、慕っていた三浦和義さんの影響も大きいように思う。いわゆる「ロス疑惑」事件で無罪を勝ち得た三浦さんは、2005年から眞須美さんを支援し、2008年に不慮の死を遂げるまで彼女に大きな影響を与えた。

三浦さんといえば、拘置所や刑務所で、多くのメディア訴訟を提起し、獄中の処遇改善のために闘ったことで知られている。特に宮城刑務所に収監されていた時には、何度も刑務所側に訴えて、それまで冬に置かれていなかった暖房を入れさせたり、読みたい本を一度に3冊までしか所持できなかった規則を変えさせて6冊まで許可されるようにしたりと、様々な要求を勝ち取った。本の所持冊数が変更された時など、それがアナウンスされた瞬間には三浦さんの周囲の舎房から「わあっ」という歓声が沸き起こったという。

死刑確定から年月も経ており、世間的には、和歌山カレー事件は眞須美さんの犯行ということで決着したと思っている人も多いだろう。しかし実際には、眞須美さんは一貫して無実を訴えて再審請求を続けている。弁護団も安田好弘弁護士を中心とする強力な顔ぶれだし、毎年、事件のあった7月には大きな集会が大阪で開催されるというように、この種のケースとしては強固な支援グループも存在している(それを立ち上げたのは三浦和義さんで、彼の死後は鈴木邦男さんが代表を受け継いでいる)。

何よりも眞須美さんを力づけたのは、1審死刑判決に大きな影響を与えたヒ素鑑定、当時は最新鋭とされたスプリング8という装置を使って出された鑑定結果が、今になって揺らいでいることだ。足利事件のDNA鑑定もそうだったが、裁判当時は最新の科学的データとされ、判決にも影響を与えたものが、その後のさらなる科学の進歩によって、意外とずさんだったことが判明していくという流れだ。それら再審をめぐる論点については、前述した『和歌山カレー事件 獄中からの手紙』をご覧いただきたい。

この記事の冒頭に画像として掲げたのは、最新の眞須美さんからの手紙の一部だ。文面の途中の私信にあたる部分をカットしてあるが、まぎれもない眞須美さんの自筆の文面だ。

最近は、夫の健治さんも体調がすぐれず面会にも行けていないから、眞須美さんは家族と弁護士以外接見禁止という状況の中で、死刑の恐怖と闘いながら、必死に外部への発信方法を考え、支援を呼びかけているわけだ。

近年は死刑判決も死刑執行も増え、再審請求をしているからといって執行回避にはならないとも言われている。そんなかで続けられている眞須美さんの孤独な闘いの経過については、可能な限り、今後も伝えていきたいと思う。

なお文中で言及した『和歌山カレー事件 獄中からの手紙』は現在も販売されており、興味ある方は下記を参照いただきたい。

http://www.tsukuru.co.jp/books/index.html

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

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