小学生に学校の長時間労働の問題、働き方改革の必要性を語ってみた
先日、学校の先生の長時間労働の問題について、小学生向けに解説してほしいと頼まれた
朝日小学生新聞から。題材にする天声人語で医師の過労について扱ったものがあり、その最後に教師の多忙についての言及もあるので、ということだった。
新聞の漢字はすべてふりがな付き、うちは小学生の娘が2人いるけれど、娘にもわかるように、しかも400文字以内で説明するとなると、大人向けよりよほど難しかった。しかも、将来の夢が先生という子も少なくないであろう。ヘンに幻滅させてしまうようでもいけない、ここが一番気を遣った。
さて、うまくいっただろうか?その記事がこれ。
「子どもと向き合う時間の確保のため」働き方改革をする、へのギモン
最初の段落に書いたように、多くの場合(小学校でも中高でも)、先生たちは子どもたちのことを思って、日々一生懸命だ。文科省の教員勤務実態調査や、各自治体の教育委員会等が実施している調査を見ても、授業準備、採点・添削、部活動、行事の準備、生徒指導などにも相当の時間を費やしていることが分かっている。
学校の働き方改革では、教師の事務作業や会議などの時間を削減して、「子どもと向き合う時間を確保しましょう」と呼びかけているものが多い(文科省も、教育委員会も、校長も)。だが、すでに先生たちは相当な時間を「子どもと向き合っている」のが現実である(もっとも、授業準備と授業実践等はもっと質を上げたいという課題はあるが)。むしろ、子どものためにもっとやっていきたい、という使命感や責任感が強い人ほど、長時間労働は改善しにくい。
しかし、拙著『「先生が忙しすぎる」をあきらめない』で詳しく解説しているが、学校の長時間労働を放置しては、さまざまな弊害があるし、すでに多くの学校現場で現実に起きている。
そのひとつは、先生たちの命であり、健康への影響だ。実例を紹介する。
わたしは、北海道から沖縄まで全国各地の学校、教育行政を講演や取材をして訪問しているが、この聡美先生のように、無理をしてでも仕事に出てくる教師は多い。実際、教員の声を聞いても、あるいは調査データを確認しても、このケースに類似することは全国どこで今日明日、起きてもおかしくないような現実であり、過労死ラインを超えた現場がすぐ近くにある。
長時間労働は自己研鑽を細らせる、これは教師には致命的
実は、今回の小学生向けのメッセージで、一番自分としてこだわった箇所が
「忙しい先生のなかには勉強時間がなかなか取れない人もいます。先生だからといって、勉強しないでいいわけではないのです。」
というところだ。
当たり前なのだが、先生だって、いや、先生だからこそ、日々の勉強は不可欠だ。しかもそれは、プリントづくりなどの教材研究をガリガリやるという狭い意味ではない。テレビを見ても、どこかに出かけても、それが授業のヒントになったり、何かの糧になったりすることはあると思う。読書や人とじっくり話をするというのも、よいインプット(あるいはアウトプット)だ。
参考までに、ベネッセ教育研究所「学習指導基本調査」(2016年実施)によると、 小学校教員が新聞を読んだり、読書したりする時間(平日の1日)は、24.7分、中学校教員は23.1分、高校教員は33.6分だそうだ。ちなみに、NHKが2015年に実施した国民生活時間調査によると、勤め人の1日(平日)の新聞を読む時間は10分、雑誌・マンガ・本を読む時間は9分なので、合計約19分である。教師の読書は一般の人より少しは長いかなというくらいだ。
これらは平均値なので(おそらく分散が大きい話だと思う)目安にしかならないが、毎日忙しいと、それほどじっくり本などを読むヒマはないという教師も多いと思う。土日も部活指導や何かの残務で追われていると、疲れてしまって、じっくり何かから学ぼうという時間もエネルギーも減ってしまうだろう。
実際、愛知教育大等の調査によると、授業の準備をする時間がないという教員も非常に多いのだが、それと同じくらい心配なのは、「仕事に追われて生活のゆとりがない」人も小中高とも7割前後いる事実だ。
新しい学習指導要領(小学校は2020年度からで、この4月からは移行期間が始まる)は、AI時代に対応するために、コンピュータや機械では代替できない力を高めることを強く意識したものとなっている。創造性や深い思考力、問題解決力などだ。しかし、当の教師が日々長時間労働で疲れ果てて、自己研鑽がやせた状態では、先生たちの創造性や思考力は高まらないだろう。その先生から教えられる子どもも不幸である。
つまり、逆説的な真実がある。日本の先生の多くは、子どもたちのために一生懸命、長時間労働までして頑張っている。しかし、それは結果的には、子どもたちのためにならない可能性も高いのだ。
先生たちにもっと必要なのは、子どもと向き合う時間というよりも、自分と向き合う時間である。