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【戦国こぼれ話】豊臣秀頼は、豊臣秀吉の実子ではなかったのか。その真相と闇に迫る

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
豊臣秀吉は子の秀頼の誕生を喜んだが、実は実子ではなかった?(提供:アフロ)

 北野天満宮(京都市上京区)は、慶長12(1607)年に豊臣秀頼(秀吉の子)から奉納された鏡を発見したと発表。大いに盛り上がっているが、秀頼は秀吉の子でなかったという説がある。真相はいかに。

■実子がいなかった豊臣秀吉

 豊臣秀吉の正妻は、おね(ねね)である。しかし、2人の間に実子は誕生しなかった。秀吉は側室を迎えるものの、やはり子は誕生しなかった。秀吉にとって、実に憂鬱なことだった。

 戦国時代にあって、後継者たる男子が生まれないことは致命的なことだった。そこで、秀吉は甥の秀次を養子に迎え、後継者に据えることで問題を解決しようとした。

 しかし、男子をもうけて後継者に据えることは、秀吉の悲願だったに違いない。そして、秀吉の悲願は見事に実現するのである。

■茶々(淀殿)との結婚

 秀吉と茶々(淀殿。以下、淀殿で統一)を側室に迎えたのは、天正16年(1588)のことである。淀殿を側室に迎えたことは、秀吉を幸運に導いた。

 文禄元年(1593)、秀吉の念願が叶って、2人の間に秀頼が誕生した。なお、慶長3年(1598)の秀吉没後、秀頼は豊臣家を継承したが、慶長20年(1615)の大坂夏の陣で徳川家康に敗れて自害した。

■秀頼は秀吉の実子ではない

 ところが、秀頼に関しては、古くから秀吉の実子ではなく、淀殿と大野治長の間の子であるといわれてきた(『萩藩閥閲録』)。秀頼は、淀殿と治長が密通してできた子だというのである。

 フロイスの『日本史』にも秀吉に子種がなかったことや、夭折した長男・鶴松が実子でないと明確に書き残している。こうした点は誠に興味深いところであるが、未だ検討の余地があるといえよう。

 余談ながら、姜沆の『看羊録』には興味深いことが書かれている。秀吉の死後、徳川家康は秀吉の遺命に従って、淀殿を妻に迎えようとした。

 しかし、淀殿は治長の子を宿していたので、これを拒否。家康は治長を流刑にして殺したと記している。しかし、これは虚説であろう。

 現在でも、秀頼が秀吉の実子であるか否かに関しては、論争が続いている。実子でないという説を唱える服部英雄氏は、以下の理由を挙げている(『河原ノ者・非人・秀吉』山川出版社)。

①根本的に秀吉には子種がなかったと考えられること。

②秀頼が誕生する10ヵ月前に秀吉と淀殿は同じ肥前名護屋(佐賀県唐津市)にいなかったこと。

 では、秀頼は誰の子だったのか。

 当時、参籠の場が男女の交情の場となっており、そこで子供が授かることがあった。そこで、聚楽第あるいは大坂城内の城内持仏堂を参籠堂とし、宗教者(僧侶あるいは陰陽師)と淀殿が交わって誕生したのが秀頼であるという。大胆な説であるが、さらに検討を要しよう。

■まとめ

 一ついえることは、秀頼が実子であったか否かは別として、秀吉の後継者になったことが重要という点である。このことで、豊臣家は存続するのであり、仮に他人の子であっても関係ない。

 そのことを言い出すと、多くの戦国大名は養子を受け入れていたので、当時の世情にあわなくなる。真相は不明であるが、これ以上詮索しても史料的な裏付けは得られないだろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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