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【深掘り「鎌倉殿の13人」】源頼家の修禅寺幽閉は、北条時政と大江広元の策謀だった

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
修禅寺。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の32回目では、源頼家が修禅寺に幽閉された。これは北条時政と大江広元の策謀だったが、その点について詳しく掘り下げてみよう。

■源頼家の危篤

 建仁3年(1203)9月7日、源頼家は死んだことになり、新将軍として実朝(千幡)が擁立された。実朝が新将軍になったことは、時政ら北条一族の宿願だった。

 しかし、頼家は病に苦しみ、一時は命が危ぶまれたが、決して亡くなったわけではない。臨終出家までしたものの、祈禱の効果があったのか、急速に回復したのである。

 病が癒えたとはいえ、頼家に待ち構えていたのは果てしない絶望だった。それは言うまでもなく、頼家は将軍職を廃され、新たに弟の実朝が新将軍に就任したからだ。頼家は時政を討とうとしたが、それは失敗に終わった。

 一方で、困ったのは頼家だけではなかった。北条時政も政子も頼家が死ぬと思ったので、実朝を擁立した。しかし、頼家が蘇生したので、その後のことで頭を悩ました。頼家は邪魔だったのである。

■頼家の修禅寺行き

 『吾妻鏡』同年9月21日条によると、北条時政は大江広元と相談し、頼家を鎌倉から追放することを決定したという。こうして9月29日、頼家は伊豆の修禅寺に向かったのである。

 『吾妻鏡』によると、先陣の随兵100騎、女騎15騎、輿三帳、小舎人童1人、後陣の随兵200余騎が従ったという。かなり物々しい警備だったのは、何か意味があったのだろうか。『愚管抄』によると、頼家は修禅寺の山中という堂に押し込められたという。

 頼家が修禅寺に幽閉された理由は、『保暦間記』に書かれている。頼家は能員や子の一幡を殺されたので、無念の思いを晴らすべく、時政を殺害しようとした。しかし、頼家は時政によって修禅寺に幽閉されたという。

 頼家は存在自体が邪魔になったが、あろうことか時政を討とうとしたので、とりあえず鎌倉から追放するよりほかがなかったのだ。

■まとめ

 頼家は時政の殺害に失敗し、伊豆の修禅寺に幽閉された。時政がすぐに頼家を殺さなかったのは、元将軍だったからだろう。いかに敵対する者を殺害するのが普通だった時代とはいえ、主殺しは歓迎されなかった。それゆえ修禅寺に幽閉し、今後の措置を考えたと推測される。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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