今週末がラストランになるかもしれない”アーモンドアイの僚馬”が代弁する今は亡き母のメッセージとは……
親の反対を押し切って馬の世界へ入る
先週末、香港では日本馬がG1を3勝し、国内ではレシステンシアが驚異的な時計で阪神ジュベナイルFを逃げ切った。今週末は朝日杯フューチュリティSが行われ、来週末の有馬記念にはアーモンドアイが正式に出走を表明。正にG1シーズン真っ盛りのただ中にあるが、現場に携わるホースマンの想いは、時にレースの格に比例しない熱量を帯びる事がある。
今週末の土曜日、中山競馬場で行われるターコイズS(G3、牝馬、芝1600メートル)に担当する馬を送り込む厩務員がいる。アーモンドアイの二つ隣の馬房にいるその牝馬の面倒を見るのが熊谷博だ。彼も特別な想いを胸にここに臨む。
1969年12月1日生まれだからつい先日50歳になったばかり。神奈川県茅ヶ崎市で、父・吉市、母・恵子の間に生まれ、妹と共に育てられた。
競馬とは無縁の家庭で育った彼が馬と出会ったのは大学に入ってから。入部したテニスサークルで仲良くなった友達が、無類の競馬好きだった。
「オグリキャップのラストランとなった有馬記念は競馬場で観戦しました。こういう世界で働くのも良いな、と思いました」
大学卒業後はヤマハに就職したが、馬のいる世界で働きたいという気持ちが薄れる事はなく、ある行動に出た。いきなり北海道の牧場を訪ねたのだ。しかし……。
「門前払いをされました」
それでも諦め切れず、次なる一手を打った。
「JRAで開業する調教師に直接、手紙を送って、会社を辞めてでも厩舎で働きたい気持ちを伝えました」
送った先は当時飛ぶ鳥を落とす勢いで活躍していた藤沢和雄。間も無く返事が来た。
「面識もない自分に対し、丁寧な返事をいただきました。『牧場なら紹介出来るからまずはアルバイトをしてみて、続けられるかどうか判断してからでも良いのでは?』と言ってくださいました」
熊谷、二つ返事で頷いた。
同時に両親に相談すると、父はとくに口を挟まなかったが、母の恵子には猛反対をされた。
「せっかく大学を出て、良い会社に就職したのに、全く畑違いの馬の世界に入りたいなんて言語道断という感じで反対されました」
しかし、熊谷は思った。
「それで説得されているようでは駄目だと思い、反対を押し切ってまずは牧場でアルバイトをさせてもらう事にしました」
こうして藤沢に美浦近隣の牧場を紹介してもらい、アルバイトをすると、腹を決めた。
「本格的にこの世界に入りたいと思うようになり、会社を辞める決断をしました」
当然また母には反対されたが気持ちが揺らぐ事はなかった。ヤマハを退社し、今度は北海道の牧場を紹介してもらい就職した。
「ここで初めて馬に乗りました。落とされて骨折した事もあったけど、母親には連絡出来ませんでした」
1頭の牝馬との出会いと、母との突然の別れ
97年には競馬学校に入学。暮れに卒業すると、翌98年の頭から美浦トレセンの厩舎で働き始めた。
「この頃には母親も仕方ないと諦めている感じでした」
2000年には結婚した。その前後こそ両親に会う回数が増えたものの、一段落つくと会う機会はめっきりと減った。
「それ以降は年に2~3回会う程度でした」
そうして歳月が過ぎていった。13年からは現在の国枝栄厩舎に籍を移した。2年後の15年、出会ったのがフロンテアクイーンだった。
同馬が勝ち上がるまでには4戦を要した。しかし、素質を見抜いている男がいた。
「当時、手綱を取っていた蛯名(正義)騎手が高く評価してくれていて、重賞挑戦を勧めてくれました」
こうして挑んだクイーンC(G3)でメジャーエンブレムの2着に好走。牝馬クラシック戦線への道が、突然、拓けた。
16年5月、オークスに挑戦する事になった。そんな時、父・吉市から一本の電話が入り、思わぬ報せを耳にした。母・恵子が倒れた。
「すぐ病院に駆けつけたところ本人から『足が痛いだけなので心配ない』と言われました」
担当医の口からは「退院」というワードも出るほどで、ホッと胸を撫で下ろした。
美浦へ戻り、フロンテアクイーンと挑むオークスに集中した。結果は6着。勝ったシンハライトからは0秒4差に善戦した。
「よく頑張ってくれました。母はその後も入院が長引きましたが、それほどオオゴトではないとの事だったので、お見舞いもろくに行きませんでした」
そんな7月17日の朝の事だった。厩舎作業をしていると、電話が鳴った。父の吉市からだった。応答した熊谷は父の言葉に耳を疑った。
「母が危篤だと聞かされました」
足の痛みは心臓に端を発したモノだった。取るものもとりあえず病院へ向かった。しかし、到着した時にはすでに息を引き取っていた。
「突然の事で驚きました。死に目に会えなかったのも残念でしたけど、どうしてもっとお見舞いに行くなどしてあげられなかったのかと、後悔しました」
愛馬が代弁する母からのメッセージ
それからはフロンテアクイーンの出走が決まる度、仏壇に手を合わせ「後押ししてください」と祈るようになった。その成果があったかなかったか、17年には福島牝馬S(G3)とターコイズS(G3)でいずれも2着、18年も中山牝馬S(G3)とクイーンS(G3)で2着。あと一歩のところで、先頭でゴールを駆け抜ける事は出来なかったが、重賞で善戦を繰り返した。
「なかなか後押ししてくれませんでした」
そう苦笑する熊谷の表情が崩れる日が来た。今年3月の中山牝馬Sだ。約3カ月ぶりの競馬で5番人気だったフロンテアクイーンは三浦皇成にいざなわれて、ついに初めてとなる重賞制覇を成し遂げてみせた。
「僕自身にとっても初めての重賞勝ちでした。仏壇にレース写真と記事を供えました。喜んでくれていると願っています」
先述した通りフロンテアクイーンは今週の土曜、ターコイズSに出走する予定だ。長妻和男オーナーによると、結果次第ではこれがラストランになるとの事だ。4年以上、彼女に寄り添ってきた熊谷は言う。
「G1にも連れて行ってくれたし、良い思いも悔しい思いも沢山経験させてもらいました。もちろん勝って有終の美を飾って欲しいけど、2着でも彼女らしくて良いかな?なんて思っています。まぁ、勝ち負けは時の運もあるので、まずは無事に走り切ってくれればそれで満足です」
フロンテアクイーンが走るたびに母を思い出すという熊谷は、続けて言う。
「重賞は勝たせてもらったけど、G1には手が届きませんでした。『反対を押し切ってまでなった職業なのだからもっと頑張りなさい』とフロンテアクイーンを通して母親に言われている気がしています」
まずは今週末、フロンテアクイーンを無事に競馬場へ送る事。そして、いずれは自身がG1勝ちの大仕事をやってのける事。母の仏壇にそれらの報告が出来るよう、熊谷は今日も真摯に愛馬と向き合っていく。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)