平成になり、バブルがはじけ、阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件を経て世紀末を迎える
激動の1989年
1989年1月7日に昭和天皇が崩御し、平成が始まりました。1989年は、バブルの絶頂期を迎えた年で、年末12月29日には、東証平均株価が史上最高値の3万8957円44銭をつけましたが、国外は激動の始まりの年でした。
1989年6月に中国で天安門事件が発生、東欧諸国では共産主義体制が終焉を迎え、12月3日にマルタ会談で冷戦終結の宣言が行われました。その後、1990年に東西ドイツが統一し、1991年にはソ連が崩壊、湾岸戦争も始まり、1993年に欧州連合EUが発足します。まさに、世界が大きく変わりました。
日本では、1993年に連立政権の細川護熙内閣が発足して55年体制が崩壊します。さらに、1994年には自社さ連立の村山富市内閣が発足し、政治状況が不安定化します。こんな中、1989年11月4日に坂本堤弁護士一家殺害事件が発生し、1994年6月27日の松本サリン事件、1995年3月20日の地下鉄サリン事件と、一連のオウム真理教事件が起こります。
海外での大地震と大噴火
1990年代の前半には、国外で大地震が続発します。1989年10月17日に、サンフランシスコ郊外を震源とするロマ・プリータ地震(M7.1、死者62人)が発生します。筆者はたまたま渡米中だったため現地に向かい調査を行いました。ダウンタウンのマリーナ地区での家屋被害や、ベイブリッジの損壊、高速道路の落橋などが目立ちました。カリフォルニアでは、5年後の1994年1月17日にもロサンジェルス郊外でノースリッジ地震(M6.8、死者60人)が発生し、同様の被害が起きています。この地震では、調査中の日本人技術者が日本ではこのような被害は起きないと語る姿が報じられました。しかし翌年同日に発生した兵庫県南部地震では、両地震を上回る甚大な被害を出してしまいました。
また、1990年には、6月20日にイランでマンジール地震(M7.6、死者4万人以上)、7月16日にフィリピンでバギオ大地震 (M7.8、死者1,621人)が発生しました。前者ではアドベの家屋倒壊が、後者ではホテルのパンケーキ状の崩壊が報じられました。米国での地震に比べ、死者の多さが際立ちます。フィリピンでは、翌年の1991年6月15日にピナトゥボ山が大噴火しています。20世紀における最大級の噴火でエアロゾル粒子が成層圏に達し地球環境にも影響を与えました。この噴火では、事前に数万人の住民を避難させることに成功しています。また、噴火による被害のため米軍のスービック海軍基地とクラーク空軍基地が放棄されました。
頻発し始めた日本での地震、噴火、豪雨、事故
日本でも1991年以降、自然災害が多発するようになりました。1991年6月3日に雲仙普賢岳で大規模な火砕流が起き、取材中の報道関係者など43名が犠牲になりました。1792年に1万5千人もの犠牲者を出した島原大変肥後迷惑以来の大規模な噴火活動でした。
北海道周辺では地震が頻発するようになります。1993年1月15日に釧路沖地震(M7.5、死者2人)が、1993年7月12日に北海道南西沖地震(M7.8、死者・行方不明者230人)、1994年10月4日に北海道東方沖地震(M8.2)、1994年12月28日に三陸はるか沖地震(M7.6、死者3人)が発生します。北海道南西沖地震では、震源域の直上に位置する奥尻島を、強い揺れから時間をおかずに津波が襲ったため、多くの犠牲者を出しました。
豪雨災害も起きました。1993年7月31日から8月7日にかけての豪雨は、気象庁が平成5年8月豪雨と命名しました。この豪雨は、鹿児島水害とも呼ばれ、土砂災害や洪水により71人の死者が出ました。
1994年4月26日には、中華航空140便墜落事故が起きます。名古屋空港への着陸進入中の中華航空機が墜落し、乗員乗客271人中264人が死亡しました。
阪神・淡路大震災が発生し、その後、金融危機で苦境に陥る日本
1995年1月17日の5時46分、暗闇の中、兵庫県南部地震(M7.3、死者行方不明者6,437人)が発生しました。観測史上初めての震度7の強い揺れで、伊勢湾台風を超す犠牲者を出し、戦後最悪の自然災害になりました。災害名は阪神・淡路大震災と名付けられました。犠牲者の多くは家屋倒壊が原因でした。この地震を契機に、直前予知に依存した地震対策は、耐震化などの防災対策にシフトし、6月16日に地震防災対策特別措置法が制定され、地震調査推進本部が設置されました。また、12月25日には建物の耐震改修の促進に関する法律も制定されました。
地震後、3月20日には地下鉄サリン事件が、12月8日には高速増殖原型炉もんじゅのナトリウム漏洩事故が発生し、日本の危機管理の在り方が問われることになりました。さらに、1996年の冬には気象庁が平成18年豪雪と命名した大雪があり、屋根の雪下ろし中の事故や落雪により、福井県から秋田県にかけての日本海側と北海道などで152人もの死者が出ました。
1997年に入ると、金融危機が顕在化します。11月3日に三洋証券、11月17日に北海道拓殖銀行、11月24日に山一證券と、大手の銀行、証券会社が経営破綻しました。1998年にも、10月23日に日本長期信用銀行が、12月14日に日本債券信用銀行が破綻します。1999年には、苦境に陥った日産がルノーと資本提携しました。バブル崩壊後の1992年から始まった長期的な景気後退で我が国の経済は最悪の状況となっていき、2002年の小泉内閣による構造改革まで、失われた10年とも言われます。
20世紀末の災害と事故
海外では多くの犠牲者を出す地震が起きました。1999年8月17日にトルコでコジャエリ地震(M7.6、死者1万7000人)が、9月21日に台湾で集集地震(M7.7、死者2,415人)が起きます。1990年のマンジール地震やバギオ地震と同様の被害の特徴を持つ地震でした。コジャエリ地震はアナトリア断層の地震の空白域を埋めるように起き、集集地震は台湾を縦断する車籠埔断層で起きました。
国内では、豪雨災害、火山災害、地震災害、事故などが頻発します。1999年6月29日には広島豪雨災害とか福岡水害とよばれる豪雨災害があり、39人が亡くなりました。広島では新興住宅地で土砂災害が発生し、福岡では地下街や建物地下が水没するなどの被害が出ました。これを受けて、2000年には土砂災害防止法が制定されます。また、2000年9月11日には、東海豪雨が発生して名古屋市などで広域に浸水し、死者10人が発生しました。何れも、21世紀に頻発する都市の豪雨災害を予感させるものでした。
2000年3月31日には、有珠山がマグマ水蒸気爆発します。幸い、北海道大学の岡田弘教授の予告もあり、事前避難をすることで犠牲者を出さずにすみました。また、6月には、伊豆諸島の新島・神津島・三宅島での群発地震が起き、それに引き続いて7月8日に三宅島が噴火します。活発な火山活動の中、8月末には全島民の島外避難が決定され、9月以降は、大量の二酸化硫黄ガスが噴出するようになりました。
2000年10月6日には、鳥取県西部地震(M7.3)が発生します。1995年兵庫県南部地震や2016年熊本地震と全く同じ地震規模でしたが死者は出ませんでした。人口集中の度合いが被害量を左右することを教えてくれます。ちなみに、1943年鳥取地震は鳥取県の東で起き、この地震は西で起きました。2016年にはその間を埋めるように鳥取県中部地震が起きています。
また、1999年年9月30日東海村JCO臨界事故が起きました。核燃料加工中に臨界に達し、作業員3人のうち2人が死亡、1人が重症となり、多くの被ばく者を出しました。この時は、作業手順のずさんさが問題になりました。さらに、2000年3月8日に営団日比谷線脱線衝突事故が発生し、死者5名、負傷者63名を出しました。2005年のJR福知山線脱線事故と同様、大量輸送機関に頼る大都市の怖さを感じます。
このように、バブル景気の絶頂期に始まった平成ですが、20世紀最後の約10年間は、国内外の社会情勢が大きく変わる中、自然災害が多発し始め、一方で、日本経済も見る影も無い状況になっていきました。