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黒田官兵衛の祖父の黒田重隆は、本当に目薬の販売で儲けていたのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
黒田官兵衛。(提供:アフロ)

 今年は非常に暖かく、2月なのに花粉症が懸念され、対策用の目薬が必要だという。黒田官兵衛の祖父の黒田重隆は、目薬の販売で儲けていたといわれているが、それが事実なのか考えることにしよう。

 黒田官兵衛の先祖として、初めて一次史料に登場するのが重隆である。最初に、『黒田家譜』などにより、重隆の足跡を簡単に確認しておこう。

 永正5年(1508)、重隆は伊香郡黒田村(滋賀県長浜市)に誕生し、父とともに備前福岡(岡山県瀬戸内市)に移住した。その後、浦上村宗が備前国で台頭した。

 そこで、重隆は難を逃れるべく姫路(兵庫県姫路市)に移った。のちに黒田氏が筑前福崎(福岡市)を福岡に改称したのは、備前福岡にちなんだといわれる所以である。

 備前福岡は市が立ち、、商業都市として知られている。西国でも有数の規模を誇ったという。陸上交通では山陽道に面しており、河川交通は吉井川の水運が支えていた。付近には備前長船の刀鍛冶や備前焼の職人も集住しており、産業も発達していた。

 しかし、重隆が福岡に移ったという説は、二次史料に書かれたものにすぎない。重隆が福岡で過ごしたことを示す、根拠となる一次史料が存在しないので従えない。

 また、当時の浦上村宗が播磨西部から備前東部に勢力を及ぼしていたことを考慮すると、備前福岡から姫路に逃れたところで意味がない。その点で、重隆の福岡移住説は非常に疑わしい。

 姫路での重隆の生活ぶりを伝えるものとして、『夢幻物語』(江戸時代中期に成立)という史料がある。

 同書によると、重隆が目薬屋として立身出世を遂げた話が記されている。この話は、非常によく知られたものである。いったいどのようなストーリーなのか、内容を確認しておきたい。

 重隆は夢のお告げによって、広峯神社(兵庫県姫路市)に詣でた。重隆は浪人生活を送っており、経済状態が非常に厳しかったようである。

 ある日、神主の井口太夫と話をしているうちに、黒田家秘伝の目薬の話になった。その目薬を祈禱札といっしょに配ると、すっかり効能が評判になったというのである。

 こうして重隆は、目薬を売った代金で一財産を築いた。そして、重隆はその財産を元手にして、人々に低利の貸付を行ったというのである。

 そして、田畑を買い、新田を開き、耕作に専念したという。金融業や土地集積で成功した重隆のもとには、仕官を希望する者が二百人余りも集まったといわれている。

 この内容は荒唐無稽であり、俗説として退けるべきものである。特に、重隆が目薬売りだったというのは、いささか疑問が残る。ただし、重隆が富裕層に属していた点には、着目すべきであろう。

 目薬販売は誤りと思えるが、重隆が金融業で財をなしたという点は一考の価値がある。重隆は金融業で財を成すと、周辺の土地を集積し、多くの被官人を必要としたのではないだろうか。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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