【光る君へ】源雅信は病没したが、娘の倫子を藤原道長に嫁がせたのは正しかった
今回の大河ドラマ「光る君へ」では、ついに源雅信が亡くなった。雅信の最大の功績は、娘の倫子を藤原道長に嫁がせたことだろう。以下、その辺りを詳しく探ってみよう。
安和2年(969)に円融天皇が新天皇になると、雅信は信任を得て、貞元2(977)には右大臣に昇進した。同年は、関白を務めていた藤原兼通(兼家の兄)が病没したが、弟の兼家は見舞いにすら行かなかった。生前、この事実を知った兼通は激怒し、兼通は兼家を治部卿に降格人事を行った。
円融天皇は雅信を厚遇する一方、自身の親政を実り豊かなものにするため、藤原頼忠や兼家を遠ざけた。雅信が円融天皇に重用されていたので、兼家が恐れたのは疑いない。ここで注目されるのが、雅信の娘の倫子である。倫子が天皇に入内するか、ほかの男性と結婚するかは、雅信にとって重要なことだった。
康保元年(964)、倫子は源雅信の娘として誕生した。貞元3年(978)、関白の頼忠が太政大臣に任じられると、雅信は左大臣に昇進した。このとき、右大臣に任じられたのが、道長の父の兼家である。円融天皇の没後に花山天皇が即位すると、外戚の藤原義懐が重用されたものの、なお雅信は重用されていた。
『栄花物語』によると、雅信は倫子ら2人の娘を天皇の后候補と考えていたという。娘が子を産み、その子が天皇になれば、自分は外戚として権勢を振るえるからである。
ちょうどこの時期は、花山天皇が退位して出家したので、倫子が入内するのは難しかった。また、一条天皇はまだ幼かったので、状況は同じことであり、結婚のタイミングが非常に悪かった。そのような事情があったので、倫子の結婚相手はほかの男性を考えねばならなかった。
いずれにしても、倫子が結婚した相手は道長だった。雅信は兼家とライバル関係にあった時期もあったが、道長は実力者の子なのだから異論はなかっただろう。少なくとも兼家と雅信は納得していたはずである。道長も名門の宇多源氏の流れを汲み、左大臣だった雅信の娘を妻とすることに納得したと考えられる。
とはいえ、この結婚は結果として大正解だった。倫子は道長との間に、藤原氏の全盛期を引き継いだ頼通を産んだ。雅信は道長や藤原氏の将来の栄達に確信が持てなかったかもしれないが、それは杞憂だったのである。