樋口尚文の千夜千本 第197夜 『怪物』(是枝裕和監督)
あなたも「怪物」を生み出すか
往年のいかにも鷹揚なネタバレの批評や宣伝に慣れきっていた世代としては、当節のネタバレへの配慮は観客としてありがたくもあり、しかし評者としては大変困る場合もある。論ずる際にどうしてもそのネタバレの部分に抵触しないわけにはいかない作品の場合、気にし過ぎるとどうしても奥歯に物が挟まったような物言いになってしまう。
そもそも私自身はあまりネタバレについて気にすることはなく、なぜならその秘密の開示に作品の面白さの全てがかかっているような映画は所詮その程度のもので、何度観ても面白さが更新されるような作品でなければたいしたものではないと思っているからだ。ヒッチコックのミステリの至宝『めまい』などはいくらオチがわかっていても、したたかに面白い。いや、むしろヒッチコックの「芸」が見えてきて、面白さが増幅する感さえある。
だが、そんな私をもってしても是枝裕和監督の『怪物』についてはネタバレを気にせざるを得ない作品なのである。巷間に出回る記事からもたやすく予想できることなので、この程度の事は言ってもいいはずだが、本作は是枝流の『羅生門』である。だが、『羅生門』の原作が『藪の中』というように、あの作品では人間を観察しまくった後に決定的な「真相」の答えは出されていない。結局人間というものは通り一遍の筋書きにはおさまらない謎な生きものだが、ともあれ希望は捨てないでいようというのが『羅生門』の落しどころだった。だから、『羅生門』にあっては人間観察は含み多きかたちで中断される。
ところが、ここが大きな違いだが是枝流の『羅生門』ではとある唯一無二の「真相」がばっちりと語られるのであり、そこには含みもなにもなく、ごくシンプルで具体的なある情況が再現される。にもかかわらず、なぜ人間たちはそこから謎めいた誤読や脱線や思考放棄に走ってしまうのか、なぜ人はわざわざ「怪物」的なものを生み出してしまうのか、それを実践的に考えさせるのがこの映画なのである。そして試されるのは登場人物たちだけではなく、われわれ観客もそこに参加させられる。坂元裕二の脚本の設定と是枝監督の映像処理のミスリードによって、われわれもさまざまな誤読に誘われる。そこが本作のミソだから、さすがにそのまごうこと無き「真相」のネタバレは避けねばならない。
しかしながら『怪物』は一度全篇を観てしまっても、つまりネタバレを通過してもなお、面白さが反復する作品でもあろう。それはなぜ自分がミスリードにひっかかったのかをさらに考えさせられることになるからだ。その心性の因って来たるところを映画的に炙り出すのが本作のメインテーマである。ところで、このミスリードを主題として健闘していた作品と言えば、奇しくも本作同様に安藤サクラが主演していた石川慶監督『ある男』を真っ先に思い出すが、ミステリ映画の真犯人がキャスティングの序列でばれてしまうという笑い話もあるように、著名な俳優を揃えるとなかなか技巧としてのミスリードも難しい。『ある男』もその壁を突破するのは容易ならざる感じであったが、『怪物』は是枝作品の飛び道具とも言うべき未知なる子役たちが有名俳優と混成部隊をつくることでうまい具合に核心が「読めない」のであった。そこは『ある男』と『怪物』の安藤サクラのありようを比べればわかるだろう(もっともカンヌ映画祭などで本作を観る海外の観客にとってはまるで影響を受けないことではあるが)。