武豊で優勝の七夕賞で思い出される今は亡き1人の男との思い出
元ダービージョッキーとの思い出
今週末、七夕賞(GⅢ)が行われる。福島競馬場の芝2000メートルが舞台のこの重賞はハンデ戦という事もあり、荒れるレースとして知られている。しかし、1997年に2番人気の支持に応えて勝利したのがマイネルブリッジ(牡、美浦・伊藤正徳厩舎)だ。
個人的に、この馬名を聞くと思い出す事がある。同馬が活躍していた頃、私は競馬専門紙のトラックマンをしていた。毎週、美浦トレセンへ行き、週末に使う馬を聞いては取材する“想定班”と呼ばれる立場だった。想定班の仕事は、各社で分担して調教師から話を聞き、最後に情報を持ち寄って合わせるという流れ。私が担当した厩舎の一つに伊藤正徳厩舎があった。ほとんどの厩舎は調教スタンドにいる調教師に取材をすれば済むのだが、元ダービージョッキーでもある伊藤がスタンドにいる事はほぼ皆無。常に馬について歩くなどしているため、なかなか捕まえられない調教師の1人だった。
そこで私は朝の調教開始前に厩舎へ行き、伊藤と雑談をしながら想定を聞くというのをルーティンにしていた。ただでさえ朝の早い仕事なのに、早出だから眠い目を擦って行ったものだ。しかし、そのお陰で伊藤にはかわいがってもらえるようになった。
そんな時「手のかからない良い馬だよ」とデビュー前に教えてもらったのがマイネルブリッジだった。伊藤の見立てに誤りはなく、新馬を勝つと当時はオープン特別だったホープフルSも勝利。共同通信杯(GⅢ)では3着に好走するなどして、クラシック戦線に乗った。皐月賞(GⅠ)と日本ダービー(GⅠ)は共に7着に敗れたが、その間に使ったNHK杯(現、NHKマイルC、当時は2000メートルのGⅡ)は見事に優勝。重賞初制覇を飾った。
そんなある日の事だった。いつものように早朝に話を伺うために厩舎を訪れた。その週末のレースにはマイネルブリッジも登録されていたのだが、伊藤の口から同馬の名前が出てこないまま、私は厩舎を後にした。そのため、各社で合わせる際に、同馬の名前を出さなかった。当然、出来上がった想定表からもその名前は漏れており、これを見た伊藤が怒っていると私に連絡が入った。
先述した通り、伊藤の口から同馬の名前が出なかったのは事実だが、マイネルブリッジが1週前の段階で登録をしていたのだから、確認を怠った私のミスなのだ。まずは登録してある馬の話を聞かないと、何頭も使う厩舎側がつい1頭言い忘れるなどというのは珍しい話ではないし、忙しい合間を縫って取材に答えてくれる関係者を責める事は出来ないのだ。
早速、謝りに行った私に対し、しかし、伊藤は言った。
「いや、考えてみれば自分も伝えた記憶がない。言い忘れていたのだから、逆に謝らなくちゃいけないな」
当時の伊藤はスタッフのみならずマスコミにも厳格な姿勢で臨む傾向にあり、中には彼を苦手にする人がいたのも事実だ。しかし、実際のところ筋を通せば話を聞いてくれる人だったし、自分に非があれば素直に頭を下げる事の出来る人だった。そんな彼の姿勢や態度を見習おうと幾度も思ったものである。
マイネルブリッジとの思い出
そんな伊藤が管理したマイネルブリッジは95年の福島記念(GⅢ)で重賞2勝目をあげると96年には有馬記念(GⅠ)で3着に善戦。翌97年の春には香港へ飛びQEⅡ(現GⅠ)に挑戦(9着)。帰国後初戦の七夕賞を、武豊騎乗で制した。後に伊藤は当時を次のように述懐した。
「今では香港に行く馬も多いけど、当時はまだ珍しかった。マイネルブリッジはパイオニア的な存在でした。また、後に(武)豊は全10場での重賞制覇をするんだけど、その時点で彼が福島で勝った重賞はまだこのマイネルブリッジの七夕賞だけでした(その後06年にメイショウカイドウで七夕賞2勝目をあげる)。日本のNo1ジョッキーに少しでも貢献出来たかと思うと嬉しく感じたモノです」
伊藤は一昨年の19年2月を最後に定年により引退。厩舎は解散した。その際、話を伺うと「今まで迷惑をかけてきた女房を連れて、これからはゆっくりと旅行でも楽しみますよ」と微笑んでみせた。しかし、そんな願いが叶えられた時間は短かった。引退後1年もしないで体調を崩した伊藤は、20年8月、あっさりと逝ってしまった。おりからのコロナ禍という事もあり、私はまだお線香をあげに行く事も出来ていない。もうすぐ一周忌。コロナ騒動が落ち着き次第、お礼を言いに行きたい。七夕賞の勝ち馬、マイネルブリッジの名前をみて、改めてそう思うのだった。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)