夏の甲子園100回目。なのに歴代優勝校は97という不思議?
1915年の第1回大会以来、この夏でちょうど100回を数える全国高等学校野球選手権。南北北海道と沖縄では地方大会が始まり、7月に入ると各地で熱戦が本格化する。おりしも、深紅の大優勝旗が60年ぶりに新調されたというニュースも報じられた。
優勝旗には、各回優勝校のリボンが飾られるが、第1回の京都二中(現鳥羽)から前回の花咲徳栄まで、本来ならのべ99校が優勝しているはずだ。だが、実は。過去99回のうち、いわゆる夏の甲子園が行われなかったことが2回ある。ひとつは、1941年の第27回。年末には太平洋戦争が開戦するように軍事色が濃くなっており、学徒を居住地にとどめるためにスポーツの全国的な催しが中止されるのだ。すでに優勝が決まっている道府県がほとんどだったが、代表決定までは至らない地区も多く(当時は1県1代表ではない)、甲子園大会は中止になった。
そしてもうひとつがちょうど100年前、1918年の第4回大会である。このときは全国の14代表が決まり、それぞれが試合に備えて関西入りしたものの、やはり大会は中止となった(当時は鳴尾球場)。この2回は、全国優勝校こそないものの、地方大会は行われたため、大会の回数自体はカウントしている。昨年まで大会は99回なのに、優勝校は97と計算が合わないのはそのためだ。
ではなぜ、第4回大会は途中で中止になったのか。なんと、全国に広がった米騒動のためなのだ。
まるで歴史の教科書のようだが、14年に始まった第1次世界大戦の好景気がインフレを招き、なかでも米の価格は半年間で倍という暴騰ぶり。これが庶民の財布を直撃し、18年7月には、富山県魚津市の主婦が不満もあらわに県外に輸送する米の詰め込み作業を拒否。これをきっかけに、全国各地で、市民が米商人や町役場などに米価の引き下げを要求するとたちどころに全国に飛び火し、暴動が深刻化した。この鎮圧のために政府は、軍隊まで導入したという。そうした騒動の渦中でも各地方大会はなんとか行われ、8月9日には14の代表が決定。あとは14日に開幕予定の全国大会を待つだけだった。
米騒動以降、甲子園に縁がない1校とは?
ところが、11日に神戸市でも騒動が起こると、大会会場の西宮市・鳴尾球場そばの鈴木商店でも焼き打ち事件が発生。周辺の治安が大きく悪化したため、朝日新聞社は14日の夕刊社告で大会の延期を告知した。ただその後も騒動は収まらず、朝日新聞社はついに16日、各校の監督・主将を招き、大会の中止を伝えることになったから、選手たちは泣くに泣けない。この大会で代表になりながら、実際には試合ができなかったのは、
東北/一関中(岩手) 関東/竜ヶ崎中(現竜ヶ崎一・茨城) 京浜/慶応普通部(現慶応・当時は東京、現神奈川) 甲信/長野師範(現信州大教育学部) 東海/愛知一中(現旭丘) 北陸/長岡中(新潟) 京津/京都二中(現鳥羽) 紀和/和歌山中(現桐蔭) 大阪/市岡中 兵庫/関西学院中 山陽/広島商 山陰/鳥取中(現鳥取西) 四国/今治中(現今治西、愛媛) 九州/中学明善(現明善、福岡)
なお、実際には試合をしなかったが、大会の回数同様、各代表校の出場回数としてカウントされている。今治西などは、63年夏の甲子園出場が「45年ぶり2度目」とされたが、実際は45年前は試合しておらず、ほぼ初出場のようなものだった。そしてたった1校だけ、この18年以降、甲子園の土を踏んでいないのが明善である。取材に行くと、
「米騒動のことは、知っていました。でも全国大会に出ているとは、いまのチームとあまりにも違うのでびっくりです」
と神代啓志郎主将。なにしろいまでは、九州大や京都大進学者も多い福岡屈指の県立進学校。練習は午後4時半から6時半(7限授業ならもっと短い)、練習後は塾に通う部員も多い。それ以前に、県内には強豪私学がごろごろいる。100回記念大会で今年の福岡は南北2代表とはいえ、甲子園への道はかなり険しいのが現実だ。それでも、同校OBの久米正昭監督からはこんなメールをいただいた。「明日は抽選会です。どこを引いても1つ2つ勝ち上がれるように頑張ります」。明善の初戦は7月9日、朝倉が相手である。