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ドラフト候補カタログ【7】伊藤ヴィットル(日本生命)

楊順行スポーツライター
(写真:アフロ)

 本庄第一高(埼玉)・須長三郎監督から「日本に来ないか」と誘われると、即答した。

「はい、行きます!」

 こうして伊藤ヴィットルは、ブラジル・サンパウロから海を渡ることになる。

 少し、説明がいる。須長監督は自身、川越工高(埼玉)の外野手として甲子園ベスト4の実績があり、早稲田大、プリンスホテルでもプレーした。指導者としても1985年春、秀明高(埼玉)を初のセンバツ出場に導くなどのキャリアがあり、女子校から共学化した本庄第一高に招かれたのが2002年だ。すると08年には、90回記念大会だった夏に、北埼玉の代表として初出場を果たす。そのときの2年生エースが伊藤ディエゴ、つまり伊藤の兄だ。そういう縁があったから、ヴィットルも来日への道が開けたわけだ。またその夏、開星高(島根)との1回戦でサヨナラ本塁打を放った奥田ペドロも、やはりブラジルからの留学生。須長監督の豊富な人脈の賜物だった。伊藤は振り返る。

「兄が甲子園でプレーしていた姿をインターネットの映像で見ると、アルプススタンドがまるでサッカー場みたいで、自分もあそこで野球をしたいと思ったんです。それでも、来日するときは日本語もまるでしゃべれず、不安でいっぱいでした」

WBC予選のブラジル代表

 高温多湿の日本の気候になかなか慣れず、最初の夏には熱中症で倒れたこともあったとか。だが、寮生活を送りながら日本語にもまれ、「3年になるころには、日常生活にも慣れました」。進学した共栄大では1年秋に最優秀新人となり、東京新大学リーグで初優勝した3年春にはベストナインと最多盗塁、さらに4年春には最高殊勲選手を獲得。16年のWBC予選でもブラジル代表に選ばれるなど、身体能力の高い遊撃手としてあふれる才能を発揮している。

 18年には、「日本で野球をやるんだ、という強い意志で」(十河章弘監督)日本生命に入社。いまは会話も流ちょうで、それどころか英語、ポルトガル語も自在に操るから優秀なビジネスマンだ。

「ブラジル野球は個を優先しがちですが、チームでプレーする日本の野球は勝ったときの楽しさが違いますね」

 と語っていた伊藤の1年目。チームが16年ぶりに都市対抗本大会への出場を逃し、寮で落ち込んでいると、携帯電話が鳴った。故郷の母・マルシアさんからだ。「悔しさを力に変えて」。気持ちを切り換えて出場権をつかんだ日本選手権では、打率・636を記録している。2年目の今季は、都市対抗にも初出場。チームはベスト8で敗れたが、伊藤は全3試合に出場して初安打も記録した。

「都市対抗は学生時代に見たことがありますが、やっぱり、ブラジルのサッカースタジアムみたいでしたね」

 次は、プロとして東京ドームでプレーできるか。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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