最低賃金の「引上げ」はなぜ必要? 「生計費」から見た日本の現実とは
16日、中央最低賃金審議会は2021年度の最低賃金について、都道府県の時給を一律28円引き上げるよう厚労相に答申した。全国加重平均は現在の902円から930円に上がることになる。今後、都道府県の審議会が開催され、10月には新たな最低賃金が適用される。
「コロナ禍の雇用への影響」を理由に上昇率が0.1%にとどまった昨年に比して、今回は過去最大の引き上げ幅となり、経営側からの反発は大きいことが報道されている。だが、後述するように労働者側の賃金水準も下がり続けており、最低賃金の引き上げは労働者の生存権の観点から必要であると思われる。
そこで、今回の引き上げをどう評価するべきか、実証的なデータも踏まえ、考えていきたい。
最低生計費と最低賃金
まず、最低賃金の水準は生活をしていくのに十分なものであるのか、という点について考えてみたい。特に非正規は最低賃金ギリギリの賃金であるが、その賃金だけで生計を自立していかなければならない人は多いからだ。では、現在の最低賃金は、最低限の生活をしていくうえで、果たして十分な水準だといえるのだろうか?
この点に関して、有力な資料が、静岡県立大学の中澤秀一氏らが行った最低生計費調査である(後藤道夫他『最低賃金1500円がつくる仕事と暮らし』所収)。本調査では、憲法第25条で定める「健康で文化的な最低限度の生活」の水準を具体的な調査から明らかにしている。「最低生計費」の額が、最低賃金よりも高ければ現在の最低賃金では生きていくことができず、不十分な水準だということになる。
「最低生計費調査」では、必要な生活用品やサービスの量を一つひとつ積み上げていく「マーケット・バスケット方式」を採用している。この手法は、19世紀のイギリスで貧困調査を行ったラウントリーによって考案され、かつて日本の生活保護基準を定める際にも採用された。
集計にあたっては、家電、家具用品、被服類などの「保有率7割以上の品目」について、「下から3割の人が保有する数」と実際の買い物先での価格調査に基づき費用を算定し、最低生計費を割り出している。
例えば、下表は埼玉県で一人暮らしをしている若者の「被服・履物費」の算定部分を抜粋したものである。調査では、被服以外にも生活に不可欠なあらゆる物品について積算している。
全国各地で実施された調査の結果、最低生計費は税・社会保険料込みで月額約22~24万円で、各地で大きな差はなかった。
これを月の労働時間で割れば、「最低生計費に必要な時給」=「あるべき最低賃金」が明らかになる。さきほどの月の最低生計費22~24万円を、最低賃金審議会で使われている月の総労働時間「173.8時間」で割ると、1200~1400円台となる。ただし、この労働時間はお盆も正月も関係なく、1日8時間週40時間でずっと働き続けるというものである(上記の173.8時間は実際の想定としては長すぎる)。
そのため、ワークライフバランスを実現できる労働時間として、「150時間」で計算すると、必要とされる時給は1500~1600円台に上がる。
つまり、「健康で文化的な最低限度の生活」を送る上でも、最低賃金は数百円のレベルで不足しているのが実態であるということだ。しかも、最低生計費はそれほど変わらないにもかかわらず、日本では最低賃金に地域間格差がついており、地域によっては必要な引き上げ幅が相当に大きくなる。
今回の「過去最大の引き上げ幅」をもってしても、最低生計費をまかなう水準には程遠いのである。
最低賃金の国際比較
それでは、国際的に見て日本の最低賃金の水準はどの程度なのだろうか。欧米諸国と比較してみよう。
まず、イギリス、アメリカ、ドイツ、フランスの各国は全国一律の最低賃金制度を採用しており、日本のように地域間格差を認めていない。
具体的な最低賃金額は、イギリスの25歳以上の全国生活賃金で1174.5円(1ポンド=150円で換算)。アメリカの国の最低賃金は725円(2018年、1ドル=100円で換算)と低いが、地方議会でそれ以上の額の最低賃金条例を制定することができ、ワシントン特別区などにおいて、1500円に引き上げられている。ドイツは1144円、フランスは1278円などとなっている。
ただ、もちろん国によって物価水準が違うため、額面だけを見ても、生活実感とずれが生じてしまう可能性がある。そこで、OECDではフルタイム労働者の賃金データの中央値に対し、最低賃金が占める割合を統計で示している。この割合が低いほど、最低賃金も低く、低賃金労働が許容されていることになる。
このデータでは、日本が44%に対し、アメリカは32%と低いが、イギリス55%、ドイツ約50%、フランス61%と日本よりも高くなっている。
こうしたデータから見ても、日本の最低賃金は国際的にも低水準であると考えてよいだろう。
広範囲に及ぶ最低賃金の影響
では、最低賃金の引き上げはどの程度の労働者に「影響」を与えるのだろうか。実は、近年労働者の賃金は下がり続けており、以前よりも最低賃金の引き上げが労働市場に持つインパクトは大きくなっている。
都留文科大学名誉教授の後藤道夫氏が「賃金構造基本統計調査」から作成したデータ(前掲書参照)によれば、最低賃金の影響を直に受けると考えられる、最低賃金近くのボーダー層の労働者数が大幅に増加している。
全国の最低賃金加重平均(全国各地の最低賃金を都道府県のごとの労働者数で除して算出した平均額)の3割増しの金額よりも所定内給与(決まって支給される給与のうち、時間外手当や休日出勤手当などを除いたもの)が低い正社員の割合は、2007年の3.9%から2017年には9.0%へと倍増しているのだ。
背景には、1990年代以降にパート・アルバイトや派遣で生計を立てる「家計自立型」の非正規労働者が増加したという事情がある。彼らの賃金は最低賃金ギリギリであったため、働く貧困層=ワーキングプアが拡大していた。最低賃金の引き上げは、日本の貧困問題を直接改善していくだろう。
また、正社員に関しても、労務管理が変化し、最低賃金の影響を強く受けるケースが増えている。IT・外食・介護・保育などの比較的職務が明確な業界の正社員では、仕事と働いた時間で直接月給が決まる「職務・時間給」の処遇が広がっている。
これらの業界ではマニュアル化が進んでいるために、企業は労働者をできるだけ長く、安く働かせようと裁量労働制や固定残業代を脱法的に用いて、時給換算では最低賃金ギリギリの低賃金で働かせており、「ブラック企業問題」の温床ともなっている。
そうした企業では、労働生産性をあげることよりも、低賃金で長時間働かせることによって利益をあげようとする傾向が強い。したがって、最低賃金の引き上げは、正社員の労働時間を減らし、過重労働や過労死問題を解決していくためにも有効なのである。
最低賃金大幅引き上げを求める社会運動を
以上の通り、日本の最低賃金は「健康で文化的な最低限度の生活」から見ると、かなり低い水準にあり、国際的にも低水準にとどまっている現状を見てきた。今回の「過去最大の引き上げ幅」でも足りないのである。
政府も最低賃金引き上げを目指すとしているが、それに任せているだけではなく、日本の労働者・生活者が積極的に「必要な賃金の水準」について発信していくことが重要だ。
例えば、アメリカの一部の地域で時給1500円が実現しているのは、そうした社会運動の力によるものである。2012年からのファストフード労働者によるストライキ「Fight for 15」や、各地域での労働組合や非営利団体の連携組織が最低賃金条例の制定に向けて運動を展開した。
日本でも、普通の労働者の生活の目線から賃金の在り方を目指していくための、新しい労働運動が求めらている。