戦国時代、鋸引きの刑で地獄の苦しみを味わいながら死んだ3人の男たち
以前の大河ドラマ「どうする家康」の回では、大岡弥四郎が徳川家康を裏切っていた。その後、弥四郎は鋸引きの刑に処されたが、ほかにも2人の例があるので、あわせて紹介しておこう。
鋸引きの刑は、わが国の古代から存在した。江戸時代を通して行われ、明治維新後に廃止された。刑は人々が往来する道に犯罪者を首まで地中に埋めて、通行人に竹または金属製の鋸で少しずつ引かせた。犯罪者はすぐに死なないので、地獄の苦しみを味わいながら絶命したのである。
1.和田新五郎(?~1544)
三好長慶の被官だった和田新五郎は、足利菊童丸(のちの義輝)の侍女と不義密通していたことが露見した。そこで、天文13年(1544)、新五郎は一条戻橋(京都市上京区)で、鋸引きの刑で処刑された。刑を主導したのは、足利義晴と細川晴元だったという。
最初、新五郎は鋸で左右の腕を切断され、しばらくして首も鋸で切り落とされたという。先述した鋸引きの方法とはやや異なっており、この様子を『言継卿記』に記した山科言継は、前代未聞の残酷な処刑だったと感想を漏らした。
なお、侍女は裸にされて京都市中を引き回しにされた挙句、最後は六条河原で無残にも処刑された。この事件で、長慶のメンツが潰されたので、長慶と晴元の関係はますます悪くなったという。
2.杉谷善住坊(?~1573)
元亀4年(1570)4月、杉谷善住坊は岐阜城に帰る途中の織田信長を狙撃したが、失敗に終わった。その後、信長は執拗に犯人を探し、ついに阿弥陀寺(滋賀県高島市)で善住坊を捕縛した。
善住坊は尋問を受けたあと、鋸引きの刑に処された。フロイスの『日本史』には、名前こそ書かれていないが、僧侶の鋸引きの刑が執行された様子を記している。おそらく善住坊のことだろう。大河ドラマ『黄金の日々』(1978)では、川谷拓三さんが善住坊を熱演した。
3.大岡弥四郎(?~1575)
大岡弥四郎は松平信康のもとで、岡崎の町奉行を担当していたが、密かに武田勝頼と内通していた。弥四郎は武田軍の岡崎侵攻を手引きしようとしたが、仲間の山田重英が密告したので、計画は失敗に終わった。
天正3年(1575)4月、捕らえられた弥四郎は、岡崎城下、浜松城下で引き回しにされたうえ、鋸引きの刑で処刑された。弥四郎の妻子は、磔刑に処されたという。