シリア:カーミシリーでクルド勢力と親政府勢力が交戦
2016年4月20日ごろから、シリア北東端のハサカ県のトルコとの国境付近に位置するカーミシリー市にてクルド民主連合党(PYD)、人民防衛部隊(YPG)傘下の治安部隊「アサーイシュ」とシリア政府軍や親政府の民兵組織「国家防衛隊」との間に大規模な戦闘が発生、死傷者や捕虜が多数出ている模様である。双方は、空港、刑務所、病院、検問所をめぐって交戦を繰り広げ、22日には事態の沈静化のため政府の治安部門の高官とクルド側との協議が始まった。クルド勢力は、これまで政府軍と戦略的な連携関係にあり、「イスラーム国」や、シリアにおけるアル=カーイダである「ヌスラ戦線」を事実上の主力とする「反体制派」と交戦してきた。その一方で、クルド勢力はアメリカやロシアなどの外部の当事者からも援助を受けつつも、「連邦制のクルド地域」の設立宣言を強行する等、独自の利益を追求している。これだけ見れば「シリア紛争は複雑」というお決まりの思考停止のパターンにまっしぐらとなろう。
このような思考停止状態に陥らずに事態を分析し、今後を展望するためには、今般の戦闘の舞台となったカーミシリーの歴史や、そこに住むクルド人やアラブの諸部族との関係を少々学ぶことが役立つ。カーミシリーは、1920年代にトルコとフランスとの間で第一次世界大戦後の領域分割・境界画定が行われたことで成立・発展した都市である。元々は、フランスがこの地に治安維持・国境管理のための部隊の本営を構築したことが町の起源となったが、従来「上ジャジーラ」と呼ばれていた地域の中心都市だったヌサイビーンがトルコ領となったことから、国境を挟んでヌサイビーンと正対するカーミシリーはシリア側の地域の中心都市として1930年代に急速に発展したのである。この間、アナトリア半島南東部での治安・社会情勢の悪化により、クルド人やアルメニア人など多くの民族集団がカーミシリー方面に流入したため、この地域はシリア国内でも民族や宗教の多様性が非常に高い地域となった。
1950年代に入ると、この地域に住むクルド人の境遇に様々な変化が生じてくる。すなわち、シリア国内のおけるアラブ民族主義の高揚や、クルド人に対する世論の反感が醸成されたことにより、クルド人に不利益をもたらす様々な法的措置が取られたのである。なお、クルド人に対するシリア世論の反感は、フランス統治期に編成された地元軍で将校となったクルド人士官が、1940年代末~1950年代に頻発したクーデタを主導し、社会に混乱を招いたためともいわれている。様々な措置の中でも最も影響が大きかったのは、1962年にハサカ県で行われた人口調査「例外統計」と、1960年代半ばにバアス党政権が策定した「アラブ・ベルト」構想である。前者は、ハサカ県をはじめとするシリア各地に居住するクルド人の大半をトルコから逃れてきた難民であるとの認識に基づき、1945年より前にシリアに居住していることを証明できなかったクルド人からシリア国籍を剥奪する措置である。後者は、ハサカ県の西端からイラクにいたるまでの約275kmのトルコとの国境地帯からクルド人を追放し、アラブ人を入植させる構想である。「アラブ・ベルト」は当初構想された規模では実現しなかったが、これに伴い対象地域の地名がクルド語からアラビア語風に改められたり、実際に土地収用とアラブ人の入植が行われたりした。留意すべき点は、シリアにおけるクルド人にまつわる諸問題が1920年代以降の情勢推移に起因する問題であること、そしてアサド政権の成立(1970年)よりも前から問題の原因となる諸措置が講じられてきたことである。
2000年にバッシャール・アサドが大統領に就任すると、シリア国内でも一時的に政治的な抑圧が緩和するとの雰囲気が広がり、それに伴いカーミシリーなどの地域のクルド人の間でも民族主義政党や政治改革要求、人権擁護運動が公然と活動するようになった。こうした雰囲気や隣国イラクでの「クルド自治区」の出現に影響され、カーミシリーなどクルド人の居住地域では2004年に「クルドの春」と称される大規模な暴動が発生したが、政権側に鎮圧されて多数の死傷者が出た。この期間中には様々なクルドの政治勢力が現れたが、それらが離合集散を繰り返す中でできた連合体の一つが、現在のPYDである。このような経緯を見ると、筆者としてもシリアにおけるクルド問題を「アラブ対クルドの民族紛争」との二項対立や「独裁政権の抑圧・弾圧とその被害者であるクルド人」という善悪二元論に逃避した解説をすればどんなに楽なことだろうと切に思う。しかし、この種の思考様式は、実際の分析を妨げる結果しかもたらさない。
クルド勢力とシリア政府との関係や、今後の情勢を展望する上で重要な当事者となるのは、ハサカ県、特にカーミシリー周辺に居住するアラブの諸部族である。「独裁政権対民衆」という善悪二元論で見れば、アラブの諸部族は「悪の」アサド政権に圧迫される「善良な」シリア人民の一部である。また、諸部族の中にはシャンマル部族のようにかなり明確に「反体制派」についた部族もある。ところが、冒頭で名前を挙げた民兵組織「国家防衛隊」をカーミシリー近辺で担うのは、地元のアラブ諸部族なのである。その代表格と思われるのは、1950年代からバアス党員を多数輩出し、現在もアサド政権と親しいタイイ部族、アサド政権と親密な関係を築き、ラッカ県からハサカ県に移転したブルサーン部族であるが、彼らは2004年の暴動事件の際も、治安部隊と協力してクルド人鎮圧に参加したと言われている。タイイやブルサーンに加え、やはりハサカ県を地盤とするジュブール部族も、2016年4月に行われた人民議会(=国会)選挙で議員を輩出していると思われることから、ハサカ県の諸部族の少なくとも一部は現在もアサド政権下でのシリアの政治体制に参加し、政権側から同盟者として国政場裏で権益の配分を受けていることになる。彼らは、アサド政権に与する「悪しき加害者」なのだろうか、それとも、政権に脅迫されて協力を余儀なくされている「かわいそうな被害者」だろうか?この点を考えるためには、諸部族には個々の部族ごとに異なる利害関係があることに目を向けるべきである。
クルド勢力にとっては、占拠した地域を「自治区」や「解放区」としてそこで「歴史的権利」を回復することになる様々な行為は、現地に住むアラブの諸部族にとっては長年にわたり維持してきた既得権益の侵害以外の何物でもない。実際にクルド勢力が占拠した地域では、アラブ人の追放が行われている例もあるため、アラブ人としては何かしらの方法で自衛や抵抗をすることになるだろう。その際に人々を結集させる論理が部族という地縁・血縁関係であり、アラブ人の権益擁護に最も理解がある連携相手はアサド政権なのである。ここでクルド勢力に敗退・屈服することは、アラブにとっては権利を剥奪され、最悪の場合は「民族浄化」の標的として殺されたり追放されたりすることを意味する。仮にそのような事態が生じた際、アラブの諸部族の境遇を「独裁政権に与した報い」と突き放すことができるだろうか?
シリア紛争の結果、クルド人の独立国や強い権限を享受するクルド自治区のようなものができることに対しての国際的な反応は冷淡である。クルド勢力としては、なるべく多くの権益を実力で奪取し、紛争終結に向けた取り組みの中での立場を強化したい所だろう。それに対し、カーミシリー周辺の諸部族は権益と自分たちの立場を死守しようとするだろう。現在のシリア紛争のような状況下では、「被害・加害」、「善・悪」のような二元論的構図は、状況の推移によって容易に反転しうるものである。今般のカーミシリーでの戦闘も、全ての当事者が各々正当化できる利害を持っており、そうした利害をめぐる抗争としての側面を意識して観察・分析すべきであろう。
参考文献
世界地名大辞典3 中東・アフリカ 朝倉書店
西・中央アジアにおける亀裂構造と政治体制 アジア経済研究所
現代シリアの部族と政治・社会 三元社
中東研究 526号 中東調査会(5月末刊行予定)