【深掘り「鎌倉殿の13人」】実衣は姉の北条政子のもとで、本当に「尼副将軍」を務めたのか
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が佳境を迎えているが、実衣が北条政子を助けるべく、尼副将軍に任じられていた。この話が事実なのか、詳しく掘り下げてみよう。
建保7年(1219)、3代将軍の源実朝が暗殺された。実朝は実子がなく、幕府は後継者問題に頭を痛めた。幕府は後継者として、後鳥羽の子を鎌倉に迎えようとしたが(親王将軍)、それは失敗に終わった。
そこで、代わりに迎えたのが、九条道家の三男「三寅」(のちの九条頼経)である(摂家将軍)。とはいえ、当時の「三寅」は2歳と幼く、補佐する人物が必要だった。「三寅」が政治的な判断が行えないのは、明らかである。
そこで、後見として支えたのが北条政子である。政子は、夫の亡き源頼朝の妻だった。今では後家という言葉は好ましくないが、当時の女性は亡き夫の代わりに子などの後見として政治を支えることがあった。つまり、後家である政子は、幕府内で実権を握ったのである。
ここで問題となるのが実衣(阿波局)の存在である。実衣は北条時政の娘で、政子の妹だった。頼朝の弟の阿野全成の妻となったが、全成は建仁3年(1203)に謀反の嫌疑を掛けられて殺害された。その後、実衣の動静はほとんどわからなくなる。
建保7年(1219)に実朝が暗殺された際、実衣の子である時元が謀反の嫌疑をかけられ殺害されたが、実衣が連座して処分されたのか、罪を問われなかったのか不明である。
ドラマの中での実衣は、全成の死後も生き続け、時元を実朝亡き後の将軍の座に就けようと画策していた。しかし、その不穏な動きはただちに察知され、兄の義時は実衣を殺そうとまでした。
結局、実衣は罪を許されて出家した。政子が「三寅」の後見として尼将軍になった際には、実衣が尼副将軍に就任したというのがドラマの設定である。ところが、尼将軍というのは、あくまで後世の呼称であって、当時、政子が尼将軍と呼ばれた事実はない。
ましてや実衣に至っては、この頃の動静が明らかではなく、尼副将軍どころか政子を補佐したという事実すら確認できない。つまり、尼副将軍というのはドラマの設定の話で、実衣が就任したという事実はないのである。そもそも尼副将軍という職もないのだ。