樋口尚文の千夜千本 第89夜 【追悼】渡瀬恒彦
彼岸と此岸を儚げに駆けて
渡瀬恒彦といえば、すぐに思い浮かぶのが、あの人なつっこいけれども妙に儚げな微笑である。それはニヒルというものではなくて、むしろ親しみに満ちているのに、どうにも暗黒面に堕ちていってしまう、弱さや諦めやこだわりがないまぜになったような翳りの表情である。この複雑さは兄・渡哲也と一線を画す渡瀬の持ち味で、渡が常に陰陽割り切れた「確信犯」の役柄こそなじむ根っからの「スタア」俳優であったのに対し、渡瀬は数々の映画、ドラマの主役をつとめながらも、その魅力の源泉は「バイプレーヤー的」な屈折、危うさのニュアンスにこそあった。
たとえば『仁義なき戦い』シリーズの菅原文太、松方弘樹らは市民社会の彼岸にうごめくアウトローを安定したふりきり方で演じている。これはけだし「スタア」演技の揺るがなさである。だが、『仁義なき戦い 代理戦争』でひときわ鮮烈な死にざまを見せる青年の渡瀬は、あくまで此岸の市民社会で堅気に育ち、ごく普通に母親を困らせて育った甘ちゃんのチンピラであり、それが何かの間違いで彼岸の破滅性の高揚に傾斜し、無惨ななきがらとなり果て、遺骨まで容赦なく銃弾に粉砕される。
稀代の異色篇『実録私設銀座警察』での渡瀬はデモーニッシュな殺し屋に扮したが、それとて『仁義の墓場』の渡哲也が演じたナチュラルボーン・キラーではなく、冒頭では純情な生活者らしき渡瀬の雰囲気が点描される。しかし彼は戦争によってその思いが蹂躙されたことに激昂煩悶して人格崩壊、死神のごとき相貌に転ずるのだ。この作品と同時期に実録やくざ映画とATG映画の合流地点に生まれた異色篇『鉄砲玉の美学』などはまさにこの渡瀬の資質を的確に踏まえていて、主人公がやくざの鉄砲玉として生の刹那に昂るさまと市民社会に埋没したさまを対置してみせる。
この後、70年半ば以降続々と主演作に恵まれる渡瀬は、『狂った野獣』『暴走パニック大激突』では彼岸のアウトローを、『神様がくれた赤ん坊』『震える舌』では此岸の小市民を鮮やかに演じ(前者ではハンチングにライフルでキメていた渡瀬が後者では似合わないオーバーオールで狭い団地にいて笑った)、奇しくもふたつの対照的な「忠臣蔵」である『赤穂城断絶』では殺気に満ちた剣客の吉良家家臣の小林平八郎を、『忠臣蔵外伝四谷怪談』では哀愁漂う四十七士の人情派・堀江安兵衛に扮した。
しかし渡瀬の資質はこれらをばらばらにではなく、ひとつの役柄に同居させた時にこそ最も活かされたのであって、たとえば、『皇帝のいない八月』でクーデタを謀る元自衛官に扮した時のように、憂国の士である彼の狂信的な彼岸の相貌とともに、彼が決起前に妻と旅をして、彼女を慈しむもうひとつの顔が挿入される、そんな細部が実はかんじんなのだった。彼岸と此岸をゆらぐ人物像を演ずる時、渡瀬の純粋さと儚さは俄然輝いた。さしずめその両面を曖昧かつ複雑に揺らぐ『事件』のトリックスター的なヒモの役はもう渡瀬のためにある当たり役だったと言えよう。
もっとも80年代以降の渡瀬は『復活の日』や『セーラー服と機関銃』(あのずっこけてペーソスを帯びたやくざ像は、けだし彼岸なるものの喪失を映していたようだ)で、もっぱら人情味の厚い「市民」を引き受けるようになり、あの70年代までを彩った「脇役的」で危うげな味は消えていった。こうして晩年の渡瀬は『十津川警部』『おみやさん』『警視庁捜査一課9係』などの人気テレビシリーズで、ひたすらその「市民」の顔を安定的に見せて好評を博していたが、これはけだし円熟が手にした「スタア」の演技であった。