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高校野球誕生のきっかけを作った鳥羽が、100周年の甲子園に!

楊順行スポーツライター
第1回の優勝旗レプリカの入った鳥羽のクリアファイルと京二中創立八十周年記念誌

あえて劇的に言うなら……鳥羽こそいまの高校野球、あるいは甲子園の生みの親だ。そのルーツである京都二中の『京都二中野球部記』冒頭には、こうある。

「明治三十四年五月 始メテ三、五年(紅)対二、四年(白)ノ野球試合ヲ行フ」

1900(明治33)年に開校した京都二中に、野球部ができたのは01年のことだ。初めての紅白戦以降は、市内のチームと盛んに練習試合を行っていた。10年には、創立10周年記念として、早稲田大との招待試合。大学屈指の強豪で、当初は大人と子どもくらいの差があるとみられていたが、二中は8回まで同点と互角の戦いを演じる。

1915年4月。早稲田と接戦を演じたときのバッテリーで、当時京大生の高山義三と旧制三高野球部主将の小西作太郎が、後輩の練習を見学し、こう話し合った。今年の二中は強い、京都の覇者を決める大会をやってはどうだろう……それが全国大会という構想に発展し、朝日新聞社に企画が持ち込まれた。すると8月には、本当に全国中学優勝野球大会が実現するのだ。

そして、記念すべき第1回の優勝が、言い出しっぺの京都二中である。まず11校が参加した「京津大会」では、決勝で同志社中を5対0と下し、全国大会に。そこでも高松中(香川)、和歌山中を破り、決勝では秋田中に延長13回でサヨナラ勝ち。深紅の優勝旗を手にするわけだ。京都二中はその後も、戦後再開された46年夏も準優勝を飾るなど、春夏合計5回の全国大会出場を果たしている。しかし、48年。学制改革の余波で突然、廃校。当時在校していた大島渚らが反対運動を行ったが、抵抗は及ばなかった。

「できるなら、全員で甲子園を歩きたい」を実現

それから36年。洛南中となっていた京都二中の跡地に84年、鳥羽高校が開校した。京都府も、「二中の伝統を継承する学校」と認める復活である。これを機に、長らく日本高野連が保管していた初代優勝旗のレプリカなどが学校に戻っている。

鳥羽となってからしばらくは苦しい時期が続いたが、転機となったのが97年、卯瀧逸夫監督の就任だ。無名だった北嵯峨を、10年間で5回の甲子園に導いた卯瀧の手腕で鳥羽は確実に力を蓄え、00年春からは3季連続で甲子園に出場を果たすことになる。なかでも、京都二中の創立100年だった00年春にはベスト4の活躍を見せ、京都二中の継承校としてオールドファンを喜ばせた。

さらに鳥羽は、12年のセンバツにも出場。このときのチームを率いたのが、06年に就任した山田知也監督だ。

「まあ、鈍感なのか、赴任当時は二中と言われてもあまりピンときませんでしたがね。ただ、飾られている第1回優勝旗のレプリカなどを見ると、やはり伝統の重みは感じます。生徒にも、折にふれて話していますしね」

このセンバツ出場時は左袖に、KSMS(Kyoto Second Middle School)という文字を入れた。15年当時は胸に入っていたもので、山田監督の発案だった。この夏は100周年イベントとして、復刻版のユニフォームが甲子園を歩くことが決まっていた。

大会前、山田監督は「できるなら京都で勝って、全員で行進したいんですが……」と語っていたものだ。「……」は、龍谷大平安ら強豪ひしめく京都を勝ち抜くのは容易ではない、という意を含む。

だが鳥羽は、ノーシードから快進撃を続けた。27日の決勝では、立命館宇治に6対4で逃げ切り、15年ぶり6回目の夏の出場を決めるのだ。皮肉なことに立命館宇治を率いたのは、復活・鳥羽の礎を築いた卯瀧監督だった。

「選手たちがさまざまに考え、練習してきたことを発揮してくれたのだと思います」

と山田監督。もちろんユニフォームの左袖には、KSMSの文字が入っている。鳥羽が復活出場したのは、ちょうど京都二中創立100年の00年センバツだった。そして、夏の大会創設100年。高校野球誕生のきっかけであり、第1回に優勝したチームが、節目の年の主役となるか。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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