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周到な準備と情報収集が第2回W杯で日本に初勝利をもたらした! 【ラグビーW杯の歴史】

永田洋光スポーツライター
キャプテンとして日本バックスの力を引き出した平尾 フォト・フリーダム/アフロ

第2回W杯は伝統国の荘重な雰囲気のなかで行なわれた!

 第2回ラグビー・ワールドカップ(以下W杯)は、1991年10月3日から11月2日まで、イングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランド、フランスのファイブネーションズ(当時)を構成する5協会の共同開催で行なわれた。

 大会のフォーマットは87年の第1回大会と同じだったが、参加16チームがすべて招待された前回とは違い、ベスト8がシードされて無条件で出場した一方、残る8チームは、世界の各地域で25チームが参加した予選を勝ち抜いて本大会に出場した。といっても、本大会に顔を揃えた16チームのうち初出場は、アジア太平洋地区予選で韓国、トンガ、日本を破って首位通過し、前回大会に招待されなかった鬱憤を晴らした西サモア(当時=以下サモアで表記)だけだった。

 日本は、トンガ、韓国を破ってサモアに続く2位で予選を突破。前回大会に招かれたトンガは、3位で本大会に進めなかった。

 大会は、トゥイッケナム(ロンドン)、マレーフィールド(エディンバラ)、アームズ・パーク(カーディフ)、ランズダウンロード(ダブリン)、パルク・デ・プランス(パリ)といった、ファイブネーションズでお馴染みの「聖地」を中心に行なわれた。いずれの聖地も、当時は改装前で、昔からの伝統的なたたずまいをとどめていた。ニュージーランド・オーストラリアといった南半球で行なわれた第1回とは違い、ラグビーが持つ歴史の重みを感じさせた大会だったのである。

どん底からの脱出を目指した“宿澤ジャパン”!

 前回のW杯で世界との差を見せつけられた日本は、どん底から這い上がるべく、89年2月に宿澤広朗監督―平尾誠二キャプテンの「宿澤ジャパン」をスタートさせた。

 7年半にわたって住友銀行(当時)ロンドン支店に勤務していた宿澤は、海外のラグビーに対する造詣が深く、就任当時は本店に戻って資金為替部で外為ディーラーとして働いていた。そんな38歳の“青年監督”がキャプテンに指名した平尾は、89年1月の全国社会人大会で、キャプテンとして神戸製鋼を率いて初優勝。余勢を駆って日本選手権も制したばかり。甘いマスクでラグビーを明晰に語るクールな26歳は、アスリートとしての人気が大ブレイクし始めたところだった。

 89年5月には3か月という短い準備期間ながら、来日したスコットランドを28―24と破り、日本ラグビー史上初めてIRFB常任理事国(前述のヨーロッパのファイブネーションズに加えて、ニュージーランド、オーストラリア、南アフリカの8協会)からの金星をもぎ取った。

 スコットランドは翌90年のファイブネーションズでグランドスラム(完全優勝)を遂げるなど当時は絶頂期にあったが、この来日は、同時期にブリッティッシュ&アイリッシュ・ライオンズのオーストラリア遠征があり、そこにフィンレー・コールダー、ジョン・ジェフリー、ギャヴィン・ヘイスティングスら主力選手を取られていた。ただ、過去には同様のスコットランドに日本が大敗したこともあって、就任記者会見で「スコットランドには勝てると思います」と宣言した宿澤以外は、誰一人として日本の勝利を予想していないような状況だった。にもかかわらず、この伝統国を、最終的に4点差だったとはいえ、トライ数で5―1と圧倒したのだから、一気に宿澤ジャパンに対する人気が沸騰。評価も急上昇した。

 その後の、90年4月に秩父宮ラグビー場で開催されたW杯予選に至るまでのプロセスも、明快だった。

 89年夏にはAジャパンを編成して初めてトンガ・サモアに遠征。自らの手の内をさらすリスクを冒して、対戦相手の情報収集に努めた。

 選手選考も合理的で、スコットランドを破った15人を「ベストのフィフティーン」と位置づけ、スコットランド戦に招集できなかった選手や若手の有望株と激しく競わせた。

 90年2月から3月にかけてフィジーを招いた際も、テストマッチには、英国留学中だった林敏之を除くスコットランド戦のメンバーを先発に起用した(林の代わりはエケロマ・ルアイウヒ)。そして、4月に迫ったW杯予選を見据えながら、それまで見てきたスコッドから最善のメンバーを選び直した。

 その結果、予選初戦のトンガ戦では、SOが青木忍から松尾勝博に、14番WTBがノフォムリ・タウモエフォラウから郷田正に、FBが山本俊嗣から細川隆弘へと替わった。しかも、正確なプレースキック力を買われて抜擢された細川が、この試合で6PG、1コンバージョンを決めるなど、宿澤の確かな眼力が改めて証明された。

 予選を終えると、宿澤は、1泊4日(2泊は機中泊)という強行日程でアフリカ地区予選を視察。ジンバブエが出場を決める瞬間に立ち会い、チームの特徴を頭に刻みつけた。さらに91年春には、ジャパンBという準ナショナルチームを組織してジンバブエに遠征。同格のジンバブエBを破って、対策を固めた。W杯で同組となるスコットランドやアイルランドといった伝統国はテレビ映像などで情報を収集することができたが、ジンバブエに関しては、とにかく現地に足を運ぶ以外に情報を得る手段がなかったのである。

伝統国の壁に跳ね返されるも、最終戦で初勝利!

 本大会では、スコットランド、アイルランドという伝統国と、彼らのホームで正式なテストマッチを戦うことになった。宿澤は勝算を「1・5勝」と話し、ジンバブエからは勝利を、さらには伝統国に対して最後まで競った試合を戦うことを目標に据えた。

 日本の初戦は、古都エディンバラでのスコットランド戦(10月5日)。現在のような大規模スタジアムに生まれ変わる前の聖地マレーフィールドで、5万人の観客を迎えての真剣勝負だった。

 試合前には、スコットランド・ラグビー協会のパトロンであるアン王女がグラウンドに下りて、キャプテンの平尾のエスコートで選手たちに声をかけた。

 そんな荘重な雰囲気のなかで始まった試合で、日本は立ち上がりに簡単にトライを許したものの健闘。細川がDGと、前半終了間際にはゴールポスト真下にトライを決めて、9―17と食い下がった。平尾が後に「この40分間が自分のベストゲーム」と振り返ったように、アタックは小気味よく決まり、細川のトライも、平尾が厳しいタックルを受けながらも持ち堪えてスペースを作り出したことで生まれた。

 しかし、後半に入って立ち上がりにトライを奪われると、ベストメンバーを揃えたスコットランドに防戦一方となり、最終的には9―47で敗れた。

 続くアイルランド戦も、ダブリンのランズダウンロード(現アビバスタジアム)で行なわれた。

 アイルランドがファイブネーションズでさほど良い成績を残していないことに加えて、ジンバブエ戦から中2日(!)のためFWを7名入れ替えたこともあって、宿澤は「千載一遇のチャンス」と意気込んだ(日本はスコットランド戦から中3日)。しかし、要所のスクラムやラインアウトで圧力をかけられて16―32と敗れた。

 最終戦となったジンバブエ戦は、この大会で唯一北アイルランドのベルファストで行なわれた試合だった。

 当時のベルファストは、南北アイルランドで続く紛争の中心地で、爆弾テロが頻繁に起こっていた街だ。しかも、プールゲームの最終日で月曜日、かつ英国ではテレビのライブ中継がないという、組織委員会がアジア地区代表とアフリカ地区代表の対戦をどう見ているかを如実に現わした扱いとなった。

 しかし、そんな逆境にもめげず、日本は立ち上がりこそ苦しんだものの、後半にトライの山を築いて52―8と快勝した。

「これくらい、足がパンパンになるまで走らないと日本は勝てない」

 待望の勝利を挙げて肩の荷を下ろした平尾は、記者会見に向かう途中でそう試合を振り返った。付け加えれば、日本がこの試合で挙げた9トライは、この大会での1試合最多トライ記録でもあった。

 次代を担うHOとしてこの試合に出場した薫田真広は、試合終了後の気持ちをこう証言した。

「近い将来もっと強いチームにも勝てる手応えがあったので、喜ぶ気持ちはあまりなかった。大会を全敗で終えずに済んだことでホッとした、というのが正直なところでした」

 そう。

 日本にとって第2回W杯は、もう少し頑張れば世界の背中に手が届くような手応えが感じられた大会だったのである。

 しかし――。

 現実に日本がW杯で「2勝目」を挙げたのは、2015年イングランド大会の南アフリカ戦だ。

 その間、実に24年。日本代表は勝利の女神にそっぽを向かれ続けたのである。

スポーツライター

1957年生まれ。出版社勤務を経てフリーランスとなった88年度に神戸製鋼が初優勝し、そのまま現在までラグビーについて書き続けている。93年から恩師に頼まれて江戸川大学ラグビー部コーチを引き受け、廃部となるまで指導した。最新刊は『明治大学ラグビー部 勇者の百年 紫紺の誇りを胸に再び「前へ」』(二見書房)。他に『宿澤広朗 勝つことのみが善である』(文春文庫)、『スタンドオフ黄金伝説』(双葉社)、『新・ラグビーの逆襲 日本ラグビーが「世界」をとる日』(言視舎)などがある。

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