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【深掘り「どうする家康」】桶狭間の戦い後、徳川家康は先祖の墓の前で自害しようとしたのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
登誉天室を演じる里見浩太朗さん。(写真:アフロ)

 NHK大河ドラマ「どうする家康」では、桶狭間の戦い後、徳川家康が先祖の墓の前で自害しようとしていた。この話の真偽について、詳しく解説することにしたい。

 永禄3年(1560)5月19日、今川義元が桶狭間で織田信長の配下の者に討ち取られた。家康はただちに岡崎城(愛知県岡崎市)に入ろうとしたが、まだ今川方の城兵が残っていた。そこで、家康はいったん大樹寺に入り、様子を見ようとしたのである。

 大樹寺は浄土宗寺院で、松平氏の菩提寺でもあった。開基は松平親忠で、家康の祖父の清康が多宝塔を築くなど、再興に尽力したことで知られる。家康が逃げ込むには、最適な場所だった。

 また、当時の寺院はアジール(聖域、平和領域)であり、敵が攻め込んでくることがなかったので、家康は大樹寺に入ったのだろう。当時、大樹寺の住職を務めていたのは、13代目の登誉天室だった。

 実は、家康が大樹寺に入った際の有名な逸話がある。敵兵に追われた家康は、大樹寺に入ると「もはや、これまで」と覚悟して、先祖の墓の前で切腹しようとしたという。

 そこに姿をあらわしたのが登誉天室である。登誉天室は家康に対して、「先祖の親忠は子孫から征夷大将軍が出ることを願い、寺の名を「大樹(将軍の別称)」寺とした」と述べ、死のうとした家康を励ましたという。

 そして、登誉天室は家康に「厭離穢土 欣求浄土」と自ら書いた幟を与えたという。「厭離穢土 欣求浄土」の意味は、浄土宗の「穢れたこの世を離れ、浄土に往生することを願い求める」という教えである。

 17世紀の半ば頃に成立した『難波戦記』には、家康の旗指物について「将軍家には吉例の御旗がある。それは白い布に墨書で〈厭離穢土 欣求浄土〉と書かれている。これは大樹寺の登誉天室の書いたもので、家康は常に側に置いていた」とある。

 登誉天室が家康に「厭離穢土 欣求浄土」という幟を与えたのは事実かもしれないが、家康が先祖の墓の前で自害しようとしたという逸話は少し怪しい。話があまりに出来過ぎている。

 天正10年(1582)6月の本能寺の変後、織田信長の死を知った家康は、悲観して自害しようとしたが、家臣に思いとどまるよう説得された逸話がある。家康は窮地に陥ると、すぐに自害をしたがるようだ。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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