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異国で新たな一歩を踏み出す3人の日本人ホースマンのこれまでとこれから

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
初落札馬フォックスウェッジの牡馬と写真に納まる3人のホースマン(川上提供写真)

3人それぞれの出自

 森信也が生まれたのは1980年3月。41歳の誕生日が間もなくに迫っている。鹿児島で生まれ、中学、高校とテニスをしたが、テレビゲームで競馬を知り、乗馬を始めると虜になった。98年に高校を卒業後、牧場勤務を経て、荒尾競馬で厩務員になった。

 森から遅れること2年半、82年9月に埼玉で生まれ、現在38歳なのが川上鉱介だ。幼少時は野球や水泳に興じたが、家族旅行をした際に乗馬を体験。衝撃を受け、馬にかかわる仕事をしたいと考えるようになった。

 市川雄介は90年4月生まれで現在30歳。府中市の東京競馬場の近くで生まれ育ったが、幼い頃はサッカーに夢中になっていた。そんな彼はテレビ中継から競馬を観るようになり、テレビゲームもするようになるとますますハマる。結果、乗馬を始め、中学卒業時に競馬学校を受験した。

 3人のうち、最も早く日本を発ったのは川上。高校を卒業した2001年の事だった。

 「馬関連の学校があると知り、オーストラリアへ渡りました。体重が重かったので平地は諦めて障害騎手を目指しました」

 正式にライセンスが発給されるまでに3年ほどかかった。その間、調教専門のライダーとして、何とか食い扶持をつないだ。

 「金銭面で苦しくて、車上生活をした時期もありました」

 04年、念願の騎手免許を取得。しかし落馬もあって最初の2年半は未勝利に終わった。

 続いて海を越えたのは森だった。荒尾で厩務員をしていた06年の事だった。

 「先輩から『オーストラリアで開業する日本人の調教師が人材をほしがっている』と聞き、とりあえず行かせていただく事にしました。合わなければ帰国してそのまま厩務員を続ければ良いという感じの軽い気持ちでした」

 3ケ月、お試しでの渡航。しかし、行ってみると環境の良さに驚かされた。結果、かの地で開業する日本人トレーナー・繁実剛の厩舎へ移籍を決意した。

繁実厩舎時代の森(前列左)。後列右から2人目が調教師の繁実
繁実厩舎時代の森(前列左)。後列右から2人目が調教師の繁実

 その翌年の07年、市川も赤道を超えた。身長が伸びた事もあり競馬学校を不合格。高校に1年通った後、再受験をするもまたもパス出来なかった。

 「それでも騎手になりたいという気持ちは強かったので、オーストラリアのゴールドコーストにある競馬学校のような施設に入る事にしました」

悪いイメージだった最初の出会い

 生まれた場所も年も違う3人はこうして皆、オーストラリアに入った。川上はメルボルンから西に約300キロメートルのワーナンブール、森は同じヴィクトリア州でもワーナンブールから200キロメートル近く離れたバララット、市川は2人とは大きく離れたクイーンズランド州のゴールドコースト。それぞれのオーストラリアでそれぞれの経験を積んだ。

 07年に騎手として初勝利をあげた川上。その後、右肩上がりに成績は良化。そんなある日、乗った事のない厩舎から騎乗依頼が来た。レース前に1度、その馬の調教で跨る事になり、ワーナンブールから車で移動。バララットにある厩舎を訪れた。それが繁実厩舎だった。

障害騎手として活躍していた時代の川上
障害騎手として活躍していた時代の川上

 この時、川上と初めて顔を合わせた森はその第一印象を次のように語る。

 「正直『こいつとは合わない』と思いました。自分達は日本人の厩舎で仲良くやっていたけど、鉱介は1人で頑張っていたのでプライドがあったように感じました」

 だからその後しばらくは競馬場で会っても挨拶をする程度だったと言う。

 しかし、川上に聞くと森の勘違いだった事が分かる。森を「信也さん」と呼ぶ川上は語る。

 「厩舎へ行った時、先方は大人数だったので圧倒されて、うまく話せませんでした。皆、初対面でもあり、信也さんを認識出来ませんでした」

 当時の2人の心境がよく分かる逸話がある。ある日、競馬場のパドックで2人は偶然、顔を合わせた。川上が述懐する。

 「信也さんが連れて来た馬が逃げ馬だったので、挨拶代わりで何気なく『今日も逃げるんですか?』と聞いたのですが、信也さんは警戒していたのか『探られたと思った』そうです」

後に仲良くなる川上(左)と森だが、ファーストコンタクトは今一つだった
後に仲良くなる川上(左)と森だが、ファーストコンタクトは今一つだった

 しかし、その後、2人の仲は急展開をみせる。ある日、日本人コミュニティーのバーベキューに参加した森は同じくそれに参加していた川上と再会した。森は言う。

 「初めてゆっくり話したら最初に抱いたイメージと全く違いました。和気あいあいと話せて、連絡先を交換しました」

 12年の秋、2人はたまたま同じタイミングで新しい生活を始める。9月にワーナンブールを引き上げてシティにあるフレミントン競馬場へ拠点を移した川上に対し、10月には森がフリーのライダーとなり、繁実厩舎からR・スマードン厩舎に拠点を移した。再び川上の弁。

 「引っ越す時は信也さんに手伝ってもらいました。この頃にはそのくらい仲良くなっていました」

 同じ頃、騎手として頭角を現してきたのが市川だった。ゴールドコーストでデビューを目指すも受け入れてくれる厩舎が見つからず、ブリスベンを経てシドニーに移った。こうして09年10月にデビュー。翌10~11年シーズンから一気に勝ち鞍が増え、14年には通算100勝を突破。活躍する日本人ジョッキーとしてかの地のニュースに取り上げられるまでになり、自然と川上や森の耳にもその名前が入った。

市川はジョッキーとして成功し、その活躍ぶりは森や川上の耳にも自然と入っていた
市川はジョッキーとして成功し、その活躍ぶりは森や川上の耳にも自然と入っていた

ついに3人が顔を揃える

 翌15年、バララットで開業を控える日本人調教師の島良友が研修でシドニーへ飛んだ。島と旧知の仲の森はそれに合わせ現地入りした。

 「以前からシドニーの関係者とのコミュニティーを広げたいという気持ちがありました。だから1泊2日の強行軍でしたが行く事にしました」

 その際、川上を誘った。川上はまた少し違う理由で首を縦に振った。

 「騎手を引退した後の事も考え、セリを見ておきたいと思いました」

 そのセリ会場に現れたのがシドニーをベースにする市川だった。市川は述懐する。

 「もともとセリが好きで行きました」

15年、3人が初めて顔を合わせた時のセリ会場での市川
15年、3人が初めて顔を合わせた時のセリ会場での市川

 オーストラリアで別々の人生を歩んでいた3人がついに顔を合わせた。森は言う。

 「雄介君と会ったのは初めてだったけど、彼は活躍して有名人だったので一方的に知っていました。自分より年下だけど、凄い人という印象がありました」

 川上も異口同音に語る。

 「それ以前からSNSを通して連絡は取り合っていました。最初に会った時は“人見知り”という印象を受けたけど、すぐ仲良くなりました」

 一方、市川は2人の第一印象を次のように語る。

 「鉱介さんはイケイケという感じがしました。実は人生設計もきちんと考えている方でしたけど、それが分かるのはもっと後になってからでした。森さんは血統の話なども熱くされていて、競馬を好きなのが伝わってきました」

 知り合った日の夜、皆で食事をした。翌日のセリでは森が1頭の若駒をセリで購買。ビヨンドザドリームと名付け、島厩舎の最初の管理馬として、市川の父を含む計8人で所有する事にした。

 「デビュー戦で準重賞を使い、雄介君を乗せて2着に好走しました」と森。後に同馬は無事に勝ち上がる。これが、森と市川の共同作業の最初の一歩だった。

初勝利を挙げた時のビヨンドザドリームと森(右)。左は調教師の島良友
初勝利を挙げた時のビヨンドザドリームと森(右)。左は調教師の島良友

それぞれの転機

 その後、まず、転機が訪れたのは川上だった。19年9月11日の調教中に落馬。骨盤骨折の大怪我を負った。その年の5月には結婚したばかり。身重の妻がいる身で、入院生活。左足の神経も負傷し、退院後は歩く事もままならない状況。追い打ちをかけるように日本にいる母が体調を崩し入院した。

 「騎手として復帰するのは現実問題として厳しくなりました。以前から引退後は通訳や翻訳を仕事に、と考えていたけど、それだけでやっていくのは難しい。悩みました」

19年5月に結婚した川上だが、その僅か4ケ月後には落馬で大怪我を負った
19年5月に結婚した川上だが、その僅か4ケ月後には落馬で大怪我を負った

 そうこうするうち20年3月7日に母が息を引き取った。約2週間後の20日には娘が生まれた。そのあたりからコロナ禍が加速。否が応でも前へ進まなければいけない状況となった時、一本の電話が入った。市川からだった。この頃にはウィンクスでも有名なトップトレーナー、C・ウォーラー厩舎に所属していた市川は言う。

 「騎手を一生続けるのが無理な事はデビュー前から分かっていました。次のキャリアを考えた時、競馬関係の仕事しかないと思いました」

 17年に父が倒れた際、帰国よりレースの騎乗を選択した。全ての騎乗を終えてすぐに飛行機に飛び乗り日本に戻ったが、死に目に会う事は出来なかった。

 「父は僕が競馬に携わっている事をずっと応援してくれていました。だから騎乗をキャンセルするのは喜ばないだろうと思っての行動でした」

ウインクスでも有名な豪州のトップ調教師C・ウォーラー厩舎で騎乗する市川
ウインクスでも有名な豪州のトップ調教師C・ウォーラー厩舎で騎乗する市川

 自然、次のキャリアも競馬サークルで、と考えた。そこで川上に相談した。

 「話しているうちに行き着いたのが共同馬主クラブでした。何にしても自分は1人でもやるつもりだったのですが、鉱介さんが意外と乗り気でした。鉱介さんが仲間になってくれるなら心強いと感じました」

 当時を思い起こし、川上が続ける。

 「この頃、彼とはよく電話で話していました。そんな中『シンジケートをやろう』という話になったので『日本馬のトレードも視野に入れて、一緒に出来ないかな?』と考えました」

 これが20年の5月くらいだったと言い、更に続ける。

 「その後、色々調べて道筋が見えてきたので、2人が共に信頼している信也さんも誘いました」

 森が続ける。

 「2人は騎手という肩書きを捨ててこの道を選ぶと言いました。それに比べると自分は何かを捨てるわけではないので、断る理由はありませんでした」

 森が語るように川上と市川は今回の事業を開始するにあたり、騎手を引退した。こうして3人のプロジェクトによる共同馬主クラブ『Rising Sun Syndicate』が産声をあげた。

Rising Sun Syndicateのロゴマークがそのまま勝負服になっている(川上提供写真)
Rising Sun Syndicateのロゴマークがそのまま勝負服になっている(川上提供写真)

歩み出した新たな道

 現在まだリハビリを続けながら本格的なオープンへ向けひたすら事務作業をこなす川上は言う。

 「ライセンスは正式に許可されました。膨大な書類関係を捌きつつ、馬の話を聞きに行ったり、預託する調教師を決めたりといった現場の仕事もこなしつつ、柱の一つである日本馬のトレードも成功させたいです」

 また、森は自らの役割を次のように語る。

 「引き続き現場にいる事に変わりはないので、調教師や乗り手、騎手とも話し合いながら馬にとってベストの道を選びつつ、情報発信をしていきます」

 1人、シドニーにいる市川は言う。

 「子馬をみたり、動画の編集をしたり、鉱介さんの翻訳も手伝っていくつもりです。また、セリの時は率先して動くつもりでいます。同時にクリスのところでまだ勉強をしながら経験を生かしていければ、と考えています」

左から市川、川上、森の3人
左から市川、川上、森の3人

 募集馬の第1号としてあのエネイブルの弟セントロイドを英国から連れて来た彼等3人は、グループLINEでやりとりを欠かさない日々を続けている。週に1回はズームミーティングをしている。南十字星の下の三銃士は、会員とのウインウインの関係を目指し、今、新たな道を歩み始めた。

Rising Sun Syndicateの募集馬第1号となるエネイブルの弟セントロイド(川上提供写真)
Rising Sun Syndicateの募集馬第1号となるエネイブルの弟セントロイド(川上提供写真)

Rising Sun Syndicateについて、詳しくはこちらから。

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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