18歳年上の居貞親王と結ばれた藤原道長の娘の妍子とは?
今回の大河ドラマ「光る君へ」では、18歳年上の居貞親王と結ばれた藤原道長の娘の妍子が登場した。妍子とはどのような女性だったのか、紹介することにしよう。
妍子が道長と源倫子の娘として誕生したのは、正暦2年(994)のことである。道長の娘の中で、妍子はもっとも美しかったといわれている。一条天皇の中宮の彰子は姉になる。当時の感覚からすれば、道長が妍子の最適な嫁ぎ先を見つけようとしたのは、ごく当然のことだった。
妍子が居貞親王(のちの三条天皇)に入内したのは、寛弘7年(1010)のことであり、その2年後には中宮に冊立された。それは、前年に三条天皇が即位したことに伴うものだった。
三条天皇(冷泉天皇の子)が誕生したのは、天延4年(976)のことだったので、妍子よりも18歳も年上だった。しかも、三条天皇は一条天皇の皇太子だが、4歳年上だったこともあり、「さかさの儲けの君」とまでいわれた。
寛弘8年(1011)、一条天皇が亡くなったので、当時、36歳だった三条天皇がようやく即位した。その際、皇太子になったのは、彰子の子の敦成親王(のちの後一条天皇)である。これは、道長の意向を汲んだ措置でもあった。
ところで、妍子が入内した際、すでに居貞親王は藤原娍子(済時の娘)との間に4人の男子をもうけていた。妍子の年齢は、娍子が産んだ第一皇子の敦明王と同じだったので、その年齢差を実感できよう。
このとき、すでに一条天皇の中宮の彰子は、敦成親王(のちの後一条天皇)と敦良親王(のちの後朱雀天皇)を産んでいた。順調にいけば、どちらかが必ず将来天皇になることが確実だった。
道長は居貞親王に妍子を入内させることにより、その関係を深めようとしたのだろう。しかし、妍子を中宮とする一方、娍子を皇后にするというちぐはぐなことが行われたうえに、妍子は娘の禎子内親王しか産まなかった。
そもそも三条天皇は親政を望んでいたが、道長は早く外孫を天皇に即位させたかった。こうした相違もあって、2人の関係は冷え切った。娘しか産まなかった妍子も不遇な生涯を送ったのである。