83年前、世界卓球金メダリストを木のラケットで打ち破った日本選手たち
ちょうど83年前の昭和13(1938)年1月15日、日本とハンガリー(洪牙利)の対抗試合「日洪国際交歓卓球試合(以後、日洪戦)」が行われた。明治35(1902)年に日本に卓球が伝来して36年、全国の隅々まで卓球が普及し盛んに行われていたが、世界との交流はなく、まさに黒船襲来と言ってよい大事件だった。
ハンガリーからやってきたのは、世界選手権で金メダルを15個も獲得したミクロシュ・サバドスと、同じく5個のイスティバン・ケレン、正真正銘のトップ選手だ。当時のプロ選手たちはこうして世界中を巡業していたのだ。
対する日本は、全日本選手権2位の今孝(早稲田大)、全日本学生選手権3位の宮川賢次郎(同志社大)と川村澄(立教大)、全日本学生選手権ダブルス1位の今井太郎/井上景介(慶応大)ペアだった。
見たこともない外国人の卓球を一目見ようと大勢のスポーツファンが会場の日比谷公会堂に詰めかけた。
「日本選手の練習を見て初心者だと思いました。考えてもみてください。彼らは原始的なペンホルダーグリップでフォアハンドだけで攻撃し、おまけにラケットにはラバーを貼っていなかったのです」とケレンは後に書いている。当時の世界の主流はラケットを握手するように握って両面を使うシェークハンド。それに対して日本選手はペンを持つように握って片面だけ使うペンホルダーだった。しかも世界では「ラバー」と呼ばれるゴムをラケットに貼ることで強烈な回転球を操っていたが、日本では木面そのままか、せいぜいコルク貼りだった。楽勝だと思ったのも無理はない。
試合が始まるとサバドスとケレンは仰天した。第1試合こそケレンが川村に圧勝したが、第2試合のサバドスが今と接戦となり、一時はマッチポイントを握られたのだ。世界と隔絶された中で、日本は個々の技術の精度を高める反復練習によって、サバドスらの想像以上の力を身に着けていたのだ。結果としては0-5でハンガリーの勝ちとなったが、サバドスとケレンの顔から余裕は消えていた。その不安は的中し、翌日以降に行われた第2戦から日本は3連勝し、ハンガリーを完全に打ち破った。
「日本がこんな優れた腕前を持っているとは夢にも知らなかった。この調子で行けば一、二年の後には世界のトップを占め得るでしょう。殊に今選手は素晴らしい」との談話が17日付の東京朝日新聞に掲載された。
日洪戦が日本卓球界に与えた影響は大きく、ラバーが一気に広まり、ここから日本の卓球の近代化が始まった。
世界進出を夢見た選手たちだったが、不幸な時代が迫っていた。昭和16(1941)年、日本はアメリカに宣戦布告し、大東亜戦争に突入する。日洪戦を戦った宮川賢次郎、今井太郎は戦地で散り、満州に兵役した今孝も戦地で体をこわし、終戦後の昭和21(1946)年、熱望していた世界選手権出場を果たすことなく29歳の若さで世を去った。技術書『卓球その本質と方法』の改訂版執筆のためペンを離さない最後だったという。
大阪・御堂筋の三津寺で未曽有の卓球葬が執り行われ、あまりにも早い死を多くの卓球人が悼んだ。
日本が世界選手権に初出場で4種目に優勝し「卓球ニッポン」の時代が始まるのはその6年後のことである。いつしか今孝は「球聖」と呼ばれ、全日本学生選手権の優勝者には今も「今孝杯」が贈られている。
『必勝訓』
勝ち越している時には勢いに乗ぜよ
勝利を急ぐな
負け越している時にも億すなかれ
どうせ負けるなら真技を発揮する事を考えよ
必勝法とはこれなり
今孝著『卓球その本質と方法』より
※表記は現代風に直した