ある営業マンの告白「実は・・卓球やってました」 卓球暗黒時代のトラウマに27年間も囚われた男
1月の全日本選手権からパリ五輪代表選考、2月の世界選手権と、今年に入って立て続けに卓球関係の話題がメディアを賑わせた。Yahoo!ニュースのトピックスに卓球関連の記事が複数載ることも何度かあった。今回だけではない。日本がメダルを狙えるようになり、スター選手が切れ目なく登場しているこのおよそ20年というもの、卓球は何かと注目されるスポーツの地位を確立したと言える。
そうした現在では考えられないことだが、かつての1980年代、卓球は「根暗なスポーツ」として世間から徹底的に蔑まれた。その暗黒時代を卓球部員として過ごした学生たちにとって、卓球の地位がどれほど向上しようとも、そのときのトラウマはおいそれとは消えてくれない。
これは、そのような一人の男の話である。
今から12年前の2012年、ロンドン五輪で卓球女子団体が日本卓球界初のメダルを獲り、世間は卓球フィーバーに沸いていた。平野早矢香、福原愛、石川佳純が”3人娘”として感動の涙を誘い、連日テレビに出る人気ぶりだった。かつて虐げられた卓球のイメージは、もはやその片鱗さえないように見えた。
当時私は、家電メーカーで商品設計を担当していたのだが、あるとき、営業マンの高橋さん(仮名)と、代理店のAさんと3人でお客様のところを回ることがあった。私はどちらとも初対面だったので、車中つとめて世間話をした。元来私は世間話は得意な方ではないのだが、Aさんが所沢の出身だと聞き、すかさず「タマスの工場がありますね」と卓球の話に持ち込んでその場を盛り上げることに成功した(と思った)。タマスとは『バタフライ』ブランドを有する世界一の卓球用具メーカーだ。
無事に仕事が終わってAさんと別れた後、高橋さんが「喫茶店で今日のまとめをしましょう」と言った。
仙台駅の喫茶店に入るや否や、高橋さんは切り出した。
「実は私も卓球していたんです」
”実は”と言うほどの話でもないと思うのだが、高橋さんにとってこれは大変な告白だったのだ。
高橋さんは中学・高校の6年間を卓球部で汗を流した。ところが大学に入ったときに、「卓球は根暗」という世間の風潮を感じ取り、その経歴を封印してしまったという。彼の大学入学は1985年であり、まさに「卓球根暗ブーム」の真っただ中である。彼の優れた営業マンの地位を築いた、場の空気を読むことに長けた特性が、彼の卓球歴を封印したのだ。ほとんど同世代にもかかわらず、これでもかとばかり卓球にのめりこんだ私とは人間の特性が正反対なのだ。
高橋さんの決心は固く、奥さん以外の人に卓球経験について話したことはただの一度もないという。実に27年間も「卓球」を封印してきたのだ。
そんな高橋さんにとって、車中、彼の表現を借りれば異常な熱意で卓球について語る私の姿は、奇妙かつ驚異だったという。そのショックに加え、ときおり私が発するタマス、ニッタク(卓球用具メーカー)などのフレーズが彼の心を揺さぶり「心の中で何かがほぐれ始めた」という。
そして、封印していた卓球への思いが一気に溢れ出し、告白せずにはいられなくなって喫茶店に誘ったのだと語った。
「伊藤さんのおかげで肩の荷が下りました」
下した覚えはなかったのだが、感謝されているのなら悪い気はしない。しかし、そこまで卓球に否定的な気持ちを抱いている人に感謝されるというのもなかなか微妙な気持ちであり、狐につままれたような心持ちで喫茶店を後にした。
2ヶ月後、私は高橋さんと再会し、お酒を飲みながらその後の話を聞かせてもらった。
高橋さんは私への告白で、仕事でも何かが吹っ切れた感じになり、人生が変わったという。
「上司にも言ったんです」
卓球歴とは上司に報告しなければならないものだったらしい。まるで前科である。意図が不明の「報告」に、上司もさぞかし驚いたに違いない。
「伊藤さんへの告白でやっと自分がひとつになったような気がします」
そう語る高橋さんは、本当は大切だった卓球の思い出と、それを封印してしまった27年間の「心の旅」について語ってくれた。
使っていたラケットはバタフライの『閃光』。グリップエンドが斜めにカットされていて木目がデザインされたやつだ。ラバーはTSPの『スペクトル』。世界チャンピオン・河野満に憧れていたという。丘の上にあった高校で、休憩時間に戸を開け放つと吹き込んでくる風の心地よさが忘れられない。最後の高総体では地区予選の一回戦で苦手のカットマンに負けた。もし勝っても次もカットマンだった。誰かが自分を潰すために組み合わせを操作したに違いないと今でも思っている(たぶん違うと思う)。
大学では”男らしく明るい”ホッケー部に入って、卓球部員とは対照的な日焼けした肌を手に入れた。社会人になってからはウインドサーフィンで、卓球ではタブーだった”風”を手に入れた。もう卓球の影はどこにもない。
あるとき、ウインドサーフィンの先輩が仲間の前で、昔卓球をやっていたと語り、素振りをして見せた。高橋さんにはそれがドライブであることがわかったが、自分も卓球をしていたとは言えなかった。
職場のみんなとゴルフ場のラウンジで卓球をしたときも高橋さんは「素人」のふりをした。メンバーの中に、もう一人経験者がいることがボールタッチでわかったが、お互いに語らずに視線を交わした(本当だろうか)。
なんと自分は小さい人間だったのか。そう思いながら大切なものを封印してきた27年間だったが、いま彼はそれを乗り越えたのだ。彼はすっきりとした顔で語った。
「今度、卓球をしてみようと思ってるんです」
その2年後、高橋さんと私は、隠れ家的卓球バーとして名高い(これ自体矛盾だが)、中目黒の卓球バー『中目卓球ラウンジ』で卓球をした。ほぼ30年ぶりに卓球をする場所が、よりによって卓球バーというのは、何かが激しく間違っている気がするが、ここまですでに間違いすぎるほど間違えているので今さらどうでもよいだろう。
30年ぶりであるにもかかわらず、高橋さんはフォアハンドもバックショートもツッツキも横回転のレシーブも普通にこなした。
「自転車と同じで忘れないもんですね」
高橋さんも感動を隠し切れない。しかも呆れたことに「高校時代より入るような気がします」「29年間の人生経験が卓球に活きているんだと思います」とまで語った。お酒でわけがわからなくなっているとはいえ、これはトラウマを乗り越えたと言ってよいだろう。
何の実効的な役にも立たない卓球コラムニストたる私が、一人の男を「卓球暗黒時代」のトラウマから救い出したのだから、とりあえず褒められてよいだろう。
高橋さんのような人は他にもたくさんいるはずだ。この原稿がそれらの方々をも救い出す一助になることを願っている。