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『六本木クラス』が持つドラマとしての致命的な構造欠陥 それでも見てしまう魅力はどこにあるのか

堀井憲一郎コラムニスト
(写真:Rodrigo Reyes Marin/アフロ)

※本稿はドラマ『六本木クラス』のネタバレしています。

ドラマ『六本木クラス』の基本構造がねじれている

ドラマ『六本木クラス』は復讐劇を謳い文句にしていたが、見どころはそんなところにはなかった。

かなりねじれている。

復讐ドラマの基本は「ピンポイントな悪意」

復讐ドラマには「ピンポイントな悪意」が存在していないといけない。

主人公とその家族や仲間が、悪によって「狙い撃ち」されるのが復讐ドラマの前提である。

自分とその周辺がピンポイントで狙われ、理不尽な理由と手段で罠に落とし入れられ、排除されるのが始まりとなる。だいたい味方の誰かが死ぬ。

悪意が明確だ。

主人公はどん底まで突き落とされるも死なず、屈せず、その「理不尽な悪意」に対して猛然と反攻していく。

それが「復讐劇」の基本構造である。

『六本木クラス』は「ひき逃げ」から始まっている

『六本木クラス』の復讐劇は「父がひき逃げされて死亡」から始まる。

事故の真犯人は「長屋ホールディングス」の御曹司・長屋龍河(早乙女太一)。

身代わりの者が出頭して、彼はその罪を問われない。

その罪を隠蔽した父・長屋茂(香川照之)とともに敵と認定して、主人公は「復讐」を誓う。

ただ「ひき逃げ」だから、もともと悪意が存在していない。

事故はおそらく「過失」である。

不注意な運転で男性を跳ね飛ばしてしまうが、狙って跳ねたわけではないだろう。

「救護義務」を果たさず、放置して死亡させてしまったが、救急車を呼んですぐに救命措置を受けても死んでいたかもしれない。そこはわからない。

ふつう「ひき逃げ」犯には復讐を誓うものではない

一般論として、「父をひき殺した加害者」に、ただそれだけのことで息子が強い復讐心を抱いて実行するのは、社会的に容認されることではない。

それは「ひき逃げ犯」であっても、同様である。

別々の処罰感情を敢えてひとつにしてしまう

ただ、真犯人は出頭せず、身代わりの男が出頭し、真犯人の龍河は、そのままのうのうと社会生活を続けている。

それを指示したのは、外食産業のトップ「長屋ホールディングス」の会長である彼の父である。

そのため主人公のアラタ(宮部新/竹内涼真)は、この長屋父子を「敵」として、復讐を誓うことになる。

「父を跳ねたことが許せない」

「そのまま放置して逃げたことが許せない」

「そのあと身代わりを用意して罪を償ってないことが許せない」

この三つに関する処罰感情はじつは別々のもののはずだが、そこを敢えて分けずにごっちゃにしたままドラマは進んでいく。

復讐物語としての弱さの原因

だから復讐物語として弱い。

敵の「長屋父子」のもともとの行動が、主人公父子をピンポイントで狙ったものではないからだ。

過失からの事故、それを隠蔽したばかりで、つまり「保身」のためにしか動いていない。

意図して主人公を迫害しているわけではない。

でも彼らは社会的不正義を働いているから許せないだろう、とお話は展開していく。主人公側に「正義」テイストが混じってしまう。

しかし、じつは復讐心と正義は相容れないものであり、それを並べたところが、このドラマの根本的な脆弱さにつながっている。(本来、正義は復讐を止めるものである)

なぜ立場が上の者が土下座を命じるのか

その脆弱さを補おうとして、長屋会長と主人公アラタの直接対決シーンが何度かある。

そして、そのたびに、上の立場にいる長屋会長が「ここで土下座して謝れば赦してやる」、と言う。

とても不思議なシーンである。気持ちよくない。

本来、相手に土下座をさせて、それで気が済むのは、弱い立場の者が強い立場の者に命じるからである。

薩摩七十七万石の殿様が、足軽に「土下座せよ」とは命じない。だって命じなくても土下座するから。それが逆になったときに、見てる者が痛快になるばかりである。

上の者が下の者に命じる目的はおそらく「プライドの剥奪」だろう。恨みを買ってでもプライドを剥奪しようとする「ある種の嗜好」である。

ちゃんと生きていこうとする人のやることではない。

敵のボスがかなり弱い存在である

つまり香川照之が演じるボス・長屋会長は、繰り返し「弱い人間である」と明示されている。

「保身のために走りまわる」

「立場が下にある者に土下座を強要しようとする弱さがある」

「私は偉いんだと繰り返し口にする弱さがある」

弱い部分が繰り返し強調されている。

わざわざ人生を賭けて全力で倒す価値があるような設定になっていない。

彼を倒しても、見ていて、べつに痛快にはならないぞ、と事前に告知しているかのようだ。

つまり『六本木クラス』というドラマは復讐譚としての構造はかなり弱い。

復讐譚と喧伝しておきながら、最後まで見ると、なんか違っていたのか、とおもわせたいかのようだ。

敢えてそれに乗っかるのか、引いて見るのか、趣味の問題である。

『六本木クラス』のおもしろいところ

だからこのドラマはつまらないのかというと、そうではない。

「一軒の居酒屋から始めて、外食産業のトップにのし上がる」という「野望ストーリー」の部分はきちんとおもしろいのだ。そこがすごい。

主人公も敵も好きな相手もキャラが立っていない

でも(何度も反転させて悪いが)主人公のキャラがいいわけではない。

主人公(宮部新)と敵(長屋茂会長)と、主人公がずっと好きな女性(楠木優香)は、あまりキャラが立っていない。

キャラクター設定は濃いし、役者もきちんと濃く演じているのだが、際立った味がしない。既視感のあるキャラが予想されるようにしか動いてない感じである。

なかなかきちんと残念なところである。

「わたしは諸葛孔明、またはマーリン、もしくはレイリー」

おもしろいのは、主人公のもとに集まってくる「仲間」である。

象徴的なシーンは、4話、まったく人が入らない居酒屋に、麻宮葵(平手友梨奈)がやってきて、いきなり「私がこの店のマネージャーをやる」、と言い出す。

店内設備、客応対、そして店の料理にすべてダメ出しをしたあと、彼女は言う。

「家の近くにあったって微妙なのに、わざわざ六本木まで足を運んでこれを食べたいとおもいますか?」

店内の階段を上がりつつ…

「よく考えてください、わたしは諸葛孔明、またはマーリン、もしくは(笑う)レイリー?」

『六本木クラス』でわくわくし始めたその瞬間

「レイリー?」と葵本人が疑問形で発したとき、主人公アラタは「レイリー?」と聞き返し、テレビの前で私も「レイリー?」と声を出してしまい、ん? ワンピースの、と自問してから、あ、海賊王ロジャーの右腕だったからか、とおもいをめぐらし、その瞬間「あああ、この物語は、仲間をどんどん集めて、トップを目指そうというワンピ的なお話なのか」と得心してしまった。(この間、約5秒)

同時にわくわくした。

わくわくさせられるドラマはそうそう存在しない。

麻宮葵がドラマを動かしている

とくに麻宮葵の存在が、わくわくにつながっていた。

1話、2話は「復讐譚」に仕立てるための無理筋の展開がつづいて、なかなかダルかった。

主人公が十代のうちから好きな優香との関係がダルくて、それはおそらく展開上の(脚本上の)制約で(おそらくあとでひっくり返すための前フリなのだろう)、いろいろときっついなあとおもって3話を見ていて、麻宮葵が動き出すと同時にドラマが活気づきだした。

『六本木クラス』3話の名シーン

合コンの流れで質の悪い男に絡まれた葵が、逃げ込んだ商業ビルの男子トイレで、主人公アラタと再会する。

どうして欲しいと聞かれて、「じゃあ、助けてください」という、じゃあ、の部分がいい。

アラタは悪い男をぶちのめして、まずい、と言って葵の手を握って走り出す。

恋愛ドラマとして見るならとても盛り上がる部分である。

でも恋愛ものではなかった。

そのときは優香との食事後だったので、葵を引き連れたまま彼女とも合流して彼女の手も取って「走れ! 走れ!」と駆け出す。男一人と女二人。

左手で優香(新木優子)、右手で葵(平手友梨奈)を引っ張って三人で夜の街を走る。

いいシーンだった。

ここから、やっとドラマが始まったって感じがした。

5話の「やりやがったな!」と心熱くなったシーン

なんで、これを1話にもってこないんだろうとおもったが、まあ、復讐譚という体裁なので1話に置けなかったのだろう。

5話では、プロのファンドマネージャーが登場して、いきなり主人公の金を運用して巨額の資金を操っていた。誰なんだろうとおもっていると、高校のときに助けた桐野(矢本悠馬)だった。それに気づいたとき、やりやがったな、と見ていて熱くなったシーンだった。

9話から10話にかけては、お店の料理人・綾瀬りく(さとうほなみ)のトランスジェンダーの告白とそれを踏まえての料理対決が盛り上がり、りくの決意が熱かった。彼女の表情にわくわくした。

他人のために必死に動く人を見るのが熱い

仲間たちが、他人のために必死で動くシーンを見ていてとても胸が熱くなる。

見ていて自分もロジャー海賊団の、もしくはRC団の一員になったような高揚がある。

他人のために必死で動く人を見ていると、熱い。

このドラマの素敵な部分はそこに凝縮している。

でも「復讐心」は自分のための行動だ。

他人のため、という部分が一ミリもない。

それを見せられても、「仲間シーンで熱くなる視聴者」としては、ただぼんやりするばかりである。

主人公が「巻き込まれていく部分」がおもしろい

どうやら、主人公は、一見、能動的で活力にあふれた男のようでありながら、でも、彼が独自で行動するのはあまり魅力を感じさせない。

おもしろいのは、彼が「巻き込まれていく部分」である。

そこがこのドラマの特徴である。

圧倒的に魅力的なワルは龍河(早乙女太一)

敵のボスの会長も魅力的ではない。

それより息子の龍河(早乙女太一)のほうが、心に残る。

御曹司のはずだが、おそらくいろんなことに自信を持てない性格のようで、それがわかりやすく浮き出ている。

軽く、気障で、それでいて高圧的になる。

ボンボンなのにチンピラじみている。

こういう男なら、ひき逃げもするだろうという説得力もある。

敵ながら、ほんとにどうしようもないやつだな、という存在感が強い。

彼がいてやっと敵対関係がリアルになっている。

敵陣営のなかで彼がいることがとても大事だとわかって、途中からは彼から目が離せない。

ラスボスを倒しても溜飲が下がるドラマではない

『六本木クラス』はすげえわくわくする瞬間と、どうでもいいなあという瞬間が交互にやってくるドラマである。

猛スピードで水風呂とサウナを駆け抜けているようだ。

倒れそうな姿勢ながらもトップスピードで走っている危うさとスリリングさがあって、ちょっと目の離せないドラマであった。

そもそも「土下座」を中心において始まっており、それは「プライドとマウント」をテーマに取り扱っていますよということで、昔のどろどろ昼ドラ世界と同じだな、と気がついてしまって、そういうものなのだとおもって見続けるしかない。

男気を見せるつもりは最初からない、ということなのだろう。

1話2話の退屈さが前提となっているので、あまり期待しないで見ているのだが、それがいいのかもしれない。

そして、最後にラスボスを倒したところで溜飲が下がるというタイプのドラマではない、という覚悟はできている。

コラムニスト

1958年生まれ。京都市出身。1984年早稲田大学卒業後より文筆業に入る。落語、ディズニーランド、テレビ番組などのポップカルチャーから社会現象の分析を行う。著書に、1970年代の世相と現代のつながりを解く『1971年の悪霊』(2019年)、日本のクリスマスの詳細な歴史『愛と狂瀾のメリークリスマス』(2017年)、落語や江戸風俗について『落語の国からのぞいてみれば』(2009年)、『落語論』(2009年)、いろんな疑問を徹底的に調べた『ホリイのずんずん調査 誰も調べなかった100の謎』(2013年)、ディズニーランドカルチャーに関して『恋するディズニー、別れるディズニー』(2017年)など。

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