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「朝鮮民主主義人民共和国のソウル市」 90日間続いた朝鮮戦争 金日成がソウル中心地で乾杯も

当時、北朝鮮側が撮影した資料写真。ソウル市内の市電に北朝鮮国旗が飾られる

6月28日、ソウルは解放されました

朝鮮人民軍最高司令部 報道

ソウル市を包囲していた人民軍部隊は、きょう28日早朝にソウルの中心地帯に突入し、李承晩傀儡政権のいわゆる中央庁をはじめとしたソウル市庁、警察庁、放送局、各新聞社、交通運輸、通信、銀行など重要機関を支配した。

28日11時30分、英雄的人民部隊は反撃を開始して(朝鮮戦争勃発後)わずか3日で米帝の侵略者たちの植民地統治からソウルを完全に解放させた。

1950年6月28日の北朝鮮の報道だ。

この日から同年9月28日まで、ソウルは北朝鮮に支配されていた。

流行りのドラマの話ではない。実話だ。

1950年のきょう(6月25日)勃発した朝鮮戦争当時のこと。韓国では「6.25(ユギオ)」「6.25動乱」あるいは「韓国戦争」と呼ばれる。

6月28日を境に当時140万人いたソウル市民は「大韓民国国民」ではなく「朝鮮民主主義人民共和国人民」になったのだ。3日前の北側の先制攻撃に対し、韓国軍は装備・兵力ともに大きく劣り、占領を許した。ソウルを諦め、水原市に遷都した。

当時の様子をソウル大学社会学部の専任講師キム・ソンチョル氏が「歴史の傍らで ある社会学者の6.25日記」という著書でこう記している。

「(北の軍がソウルに入ってきた時)ソウル市民の約半分が街に出てきて、人民軍を熱烈に歓迎した。赤い国旗を振って万歳と叫び、学校の国旗掲揚台には話にだけ聞いていた北朝鮮国旗が掲げられた」

朝鮮日報の元記者キム・ヨンサム氏は同著を「好きであれ嫌いであれ、望むであれ、望まざるであれ、一晩で大韓民国ではない他の国の一般市民になり面食らった様子が記録されている」と表している。

6月25日、朝鮮戦争勃発の日に同著の内容を中心に当時を振り返る。

金日成がソウルでパーティー

ソウル占領の報を聞き、最高指導者金日成は即時にソウルを訪れた。翌29日の午前11時30分、ソウル市庁前と中央庁前に人民軍戦車部隊を止め、高らかに式典を行った。

「ソウル占領式」だ。

現地の市民に対し、人民軍の偉大さを見せつけるためのものだった。戦車はその後、西大門刑務所に向かい、左翼の政治犯などを解放した。当時の韓国の李承晩政権下では熾烈な反共主義が敷かれており、南朝鮮労働党の党員の多くが監獄の中にいた。

式典を終えると、金日成は韓国の大統領官邸「景武台」で休憩を取った。後に「青瓦台」と名を変え、文在寅政権時代まで韓国の大統領官邸として使われた施設で、北のトップが余裕を見せつける行動を見せたのだ。そこにいたはずの南の政権周辺の右派政治家たちといえば…3日前、6月25日の北朝鮮軍の南下の噂を聞きつけ、すでにソウルから避難していた。

その後、金正日は中央庁の地下室に準備された人民軍善戦司令部で祝杯をあげた。パーティーだ。人民軍のお祝いは3日間続いたという。

韓国では「この3日間に北の人民軍がより南下していたら戦争に勝ち、赤化統一に成功していた」という説がある。「なぜ3日間休んだのか」というのは、毎年のようにこの時期に話題になるミステリーだ。「北はソウルを陥落させれば戦争に勝てると読んでいた」「韓国内にいる労働党支持者が暴動を起こして勝手に崩壊するから」という説がある。はたまた「ソ連が北の勝利を望まなかった」「そうなれば、当時ソ連と対立していた中国がアメリカと手を組むことになりかねない」という説なども。

当初は「必ずしも悪くなかった」感情

「北朝鮮が攻めてくる」。この情報が6月25日に伝わるや、上記の通りソウルから避難した人たちがいた。その数40万とされる。このうち80%が「もともと北にいたが、共産主義の恐ろしさを知り混乱期に南に渡った人」だった。その他は北から目をつけられそうな右派の政治家、資本家、公務員などだったという。

残った市民は当初、意外と冷静だったという。

朝鮮戦争前までは、ソウルからおよそ50キロの位置にある38度線での軍事衝突は日常茶飯事だった。北が攻めてくるという状況は想像もできたのだという。

前出のソウル大学社会学部の専任講師キム・ソンチョル氏のように「大韓民国にもべつに同調していない」人からすれば、さしたる恐怖でもなかった。当時は「日本による統治が終わり、時代が良くなると期待したが失望」し、北への憧れがある人もいたという。

同氏の「歴史の傍らで ある社会学者の6.25日記」にはこんな印象も語られている。

「ミアリ峠を超えて、恵化門に北の戦車が車や馬車、兵士が数え切れないくらいに、溢れ出るようにやってくる。彼らは確かにキツい北西地方の方言を使ってはいるが、我々と言語、風習、血統をともにする同族であり、なぜだか敵兵だという考えにならない。どこか遠くに行っていた兄弟が久々に故郷に帰ってきた感じ。彼らが笑いながら話している姿を見ていると、敵愾心は沸かなかった」

キム・ソンチョル氏はまた、当時のソウル市民の行動は3つに分けられたと記している。

1.歓迎型

まるで狂ったかのように赤い旗を振り、北朝鮮軍について回ったり、仕事を手伝ったりする人。

2.消極的同調型もしくは観察型

北朝鮮軍の占領政策にはよく従うが、戦況によって態度を変えたり、隠れたりする。

3.潜入型

事情があって避難ができない公務員、軍人、警察官、資本家。隠れるように生きて逮捕を逃れた。

氏は当時「1番が最も多かった」としている。なかには「前日まで大韓青年団監察部の腕章をつけていた青年が翌日には赤い腕章をつけて街中を闊歩していることもあった」という。

感情が悪化していった理由

しかし、ソウル市民の北朝鮮への感情は徐々に悪化していった。

いくつかの問題からだ。食糧の配給制と徴兵の問題、ソウルで行った人民裁判などだ。

北朝鮮軍は当地で一定の歓迎を受けると同時に、到着翌日の29日から当地の学生を「自治隊」として動員し、各家庭へのある調査を行わせた。金日成が朝鮮労働党ソウル司令部に指示を出したのだ。

「食料保有量調査」

学生たちは銃を背中に背負い、赤い腕章を着けていたのだという。そして各家庭でこう言ってすべての食料を提出させた。

「李承晩の徒党たちのせいで、善良な人民たち(ソウル市民)が餓死の危機にある。まず持っているものをすべて提出して、それを分けて食さなければならない。そうすれば人民共和国から1週間以内に食料をたっぷりと配給してくれる」

ウソだった。

占領中の北朝鮮軍人に渡すためのものだった。さらに没収した食料はまったく一般市民の元には戻らず、朝鮮労働党の関連機関で働く人にだけ配給された。元朝鮮日報のキム・ヨンサム氏はこれを「スターリン式の重点配給政策」とした。「KBS」は2010年に制作した朝鮮戦争ドキュメンタリーで「歴史上の社会主義革命では、現地の支持者が食料を与えてくれたため、北は補給についてあまり考えていなかった」とした。

この結果、ソウル市内に餓死者が続出する事態に陥った。

  • 北朝鮮によるソウル占領の様子を報じる「KBS」

徴兵やメディア統制も…

北朝鮮がソウルで嫌がられた理由はこれだけではなかった。

現地の若者を召集して、義勇軍を結成し戦争協力させた。

戦地動員令を発令しての「命令」だった。対象年齢は19歳から37歳。時により若い中学生も強制的に動員されたという。後に金日成自身が「(韓国で)40万人を動員した」と公言したという。

当然、戦死者が出る。遺族の不満は高まった。前出のキム・ソンチョル氏はこの様子を書籍でこう記している。

「新聞を見ると、どの大学から何十人、どの中学校から何百人、ときには女子中学校から学年全員の200人がして、アメリカや李承晩の徒党に敵愾心を燃やし、義勇軍を支持したという都合のいい話が出ていた。志願したらその日にすぐに出陣するのがこの国(北朝鮮)の特徴だった」

その他、体制に背く人物の「人民裁判」や新聞の発行禁止および北朝鮮体制の機関紙への切り替えなどが行われていたという。

北朝鮮は南の支持者に「総決起せよ」と訴えていた

朝鮮戦争はおよそ、前半は北朝鮮が有利、中盤に韓国側が国連軍の参戦によって大きく巻き返し、後半に中国義勇軍の参戦により北が再び陣地を挽回するという流れだった。

「朝鮮民主主義人民共和国占領下のソウル市」では、時間が経ち、北側の戦況が悪くなると人々の間で奇妙な現象も起きた。

「上空を飛ぶ米軍機がソウルを攻撃すると、安心する」

北朝鮮による統治から解放される日が近づいている、と実感できたのだ。

北側は離れていく民衆の気持ちに対し、土地改革を行い、農民に土地を与えれば「人気回復する」と見たが、これは占領前にも行われたことがあり効果がなかった。

戦況が思ったより長引いた、という点が影響を及ぼした面があるのも確かだ。韓国でも諸説紛々だが、当時の北朝鮮は「ソウルを占領すれば、南側の協力者が民衆蜂起を起こし、韓国は崩壊する」という読みがあったという説も根強くある。

ジャーナリストの萩原遼氏が韓国で翻訳本として発表した「韓国戦争」(1995年)によると、北の当局は南の左翼・労働党支持者に対してこんな「訴え」を行っていたという。ソウルを占領した翌日、6月29日のことだ。

「人民軍は南朝鮮の人民の皆さんを救うために来ました。皆さんの恨みを晴らし、反逆者が起こした冷戦を終わらせるために進撃してきたのです。しかし皆さん、このような厳粛な時期に、南半部人民はなぜ誰も総決起をしないのですか? 何をためらっているのですか? すべての人々が一人ひとり(力を合わせ)、ともに立ち上がり、全人民的、救国的正義の戦争に積極的に参加しなければだめです。敵の後方にいるのなら、1に暴動、2に暴動、3に暴動です。全力を尽くして大衆的、政治的暴動を起こしましょう」

3ヶ月で人口が激減したソウル市

元朝鮮日報記者のキム・ヨンサム氏は当時の状況を振り返ってこうまとめている。

「自由というものは、今ではまるで空気のように当然のものになっているが、これは本当に失ってみないと分からないものなのかもしれない」

噛み合わなかった「朝鮮民主主義人民共和国のソウル市」。その後、9月25日の米国を中心とした国連軍による仁川上陸作戦により戦況が激変。ソウルの地は9月28日に大韓民国側に戻った。10月19日、逆に韓国側陣営は平壌を占拠している。

1950年6月28日から9月28日までの3ヶ月で、当初ソウルに140万人いた人口が3分の1に減ったのだという。政治的理由で逃れる人、戦死者、餓死者、そして食料を求め地方に移り住んだ人たちがいたのだった。

吉崎エイジーニョ ニュースコラム&ノンフィクション。専門は「朝鮮半島地域研究」。よって時事問題からK-POP、スポーツまで幅広く書きます。大阪外大(現阪大外国語学部)地域文化学科朝鮮語専攻卒。20代より日韓両国の媒体で「日韓サッカーニュースコラム」を執筆。「どのジャンルよりも正面衝突する日韓関係」を見てきました。サッカー専門のつもりが人生ままならず。ペンネームはそのままでやっています。本名英治。「Yahoo! 個人」月間MVAを2度受賞。北九州市小倉北区出身。フォローお願いします。https://follow.yahoo.co.jp/themes/08ed3ae29cae0d085319/

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