北朝鮮との境界線近くにある韓国・延坪(ヨンピョン)島沖。

およそ2年前のことだ。2020年9月22日の22時40分頃、北朝鮮側海上から目視できるほどの炎が上がった。

それは前日から韓国海軍、海上警察が捜査していたある事件と繋がるものだった。

島から失踪した漁業関係の公務員が北によって銃殺された後、石油で燃やされる炎だったのだ――。

2年前に韓国を震撼させた「延坪島公務員殺人事件」。

もちろん北朝鮮を責める世論もある。いっぽうでこの件について韓国内で関心を集めたのはこの点だった。

「被害者本人に北に渡る意図があったのか」。

文在寅政権下では、「あり」との結果が発表となった。

しかし尹錫悦政権誕生後にこれがひっくり返った。6月16日、韓国海上警察と政府が「なし」とこれを覆す発表。

その後遺族側が「文前大統領を訴える」と表明するなど、ふたたび大きな論争を巻き起こしている。

  • 2020年当時、事件を報じる「YTN」

深夜に「資料を読み込む」と操舵室を出た後、戻らず

事件の発端は炎の上がった前日、2020年9月21日に起きた。韓国では「延坪島公務員被殺事件」あるいは「西海(ソヘ)公務員被殺事件」として知られる。

被害者はイ・ダジュン氏(享年47)。全羅南道在住で、島には漁業指導のために着任していた。

現場は延坪島沖の北朝鮮領海内。”容疑者”は北朝鮮当局だ。

事の経緯はこうだ。

昨年9月21日深夜1時30分、イ氏が「ちょっと資料作成の仕事をしてくる」と船上の操舵室を出ていった。

その後、他の職員の前から姿を消した。

夜が明けた11時30分頃、職員が船内で「イ氏がはいていたスリッパ片方」を発見。

職員は12時51分に韓国海洋警察に行方不明届を提出した。1時間後には韓国海軍による捜索が始まる。艦艇、船舶20隻、航空機2台によるものだ。

翌22日15時30分頃、想定外の場所で本人の姿が確認された。南北境界線の北朝鮮領海内。救命胴衣を身に着け、プラスチックのような浮遊物に捕まり、浮かんでいる。

韓国領域からの「発見」ゆえ、接触ができる距離ではない。実際に韓国軍側は発見後一度姿を見失い、その後さらに2時間の捜索後再発見している。

18時36分、捜索していた国防省は事態を大統領官邸に報告。

その約3時間後の21時40分、北の領域内で大きな音が聞こえた。

銃声だった。

さらに22時11分、延坪島からも目視できるほどの大きな火が海上に上がった。

イ・ダジュン氏の遺体が焼かれたのだ。

  • 事件を報じる東亜日報系「Channel A」

文政権時代の発表「借金のため北に渡ろうとした」

韓国側の言い分は「北朝鮮側による銃殺後、海上で遺体を焼却」だ。しかし北朝鮮側は「空砲2発を撃った後、逃げた。その後数十発撃ち、海上に大量の出血を確認。(遺体については言及せず)その後浮遊物を焼却した」。

そういった食い違いよりも、韓国で関心を集めているのはこの点だ。

「イ氏に北朝鮮に渡る意思があったのか」

事件が起きた当時、軍部と海上警察はこう発表していた。

「賭博による借金があり、韓国での生活に失望。そのために意図して北に渡ろうとした」

「漁の収益をすべて賭博に充て、北朝鮮の民間船舶に越北の意思を表明した具体的な状況を考慮したとき、被害者は意図的に北に綿等としたと判断される」

さらに丁寧に根拠を箇条書きにしてまでも「イ氏は意図的に渡った」としたのだ。

1. 救命胴衣を着ていた点から単純な失踪とは考えにくい。

2. 北朝鮮側がイ氏の情報を知っていたと見られる。

3. 北朝鮮に渡る意思を表明したことがある。

4. 延坪島周辺の海域の情報をよく知っていた。

5. 潮の流れを分析していた。

遺族の激怒「文大統領がむしろ邪魔している」

これに対し、遺族側が激怒。「そんな思想の持ち主ではない」「子どももいるのにそんな行動をとるわけはない」と会見で話した。また報道を通じてイ氏の財政状況が公開されたことにも異議を唱えた。

今年1月18日にはイ・ダジュン氏の息子が、文在寅大統領から送られた慰めの手紙を返却する、という出来事もあった。息子は弁護士を通じ「真実を知りたいという思いを大統領が邪魔している」と声明を発表した。

文在寅政権側は「国家の安保」を理由に、遺族に対して調査資料を拒否してきたという。

  • 会見するイ氏の遺族

尹現政権「北に意図的に渡る意図は確認できず」

これを尹錫悦政権は「ひっくり返した」。

6月16日、海洋警察庁と大統領室国家安保室がそれぞれ衝撃的な発表を行ったのだ。

「撃たれた公務員の越北の可能性を捜査したが、北朝鮮の海域まで移動するような経緯と意図を確認することができなかった」(仁川海洋警察署長)

「A氏は精神的に困惑した状態から現実逃避のために(突発的に)北に渡ろうとしたと見なされる」(同)

同日、国防省政策企画課長もまた会見を行い、こう発表した。

「関連内容を再び分析した結果、失踪した公務員が自ら越北したという点を立証できず、かつ北朝鮮軍が我々の国民を銃撃で殺害し、死体を燃やした状況だったとはっきりとお伝え出来ます。(以前に)殺害された公務員が越北を試みたという点を発表したことにより、国民の皆様に混乱を与えました。また保安の関係上すべての点を公開できなかったことにより、より多くの事実をお知らせできない点に対し、遺憾に思います」

  • 海洋警察などの訂正・謝罪の様子を報じるSBS

なぜひっくり返った?

現政府関係者は「SBS」の取材に対し「文在寅政権が北朝鮮に気を遣いすぎだった」とコメントした。

なにせこの件について、9月25日に北側の朝鮮労働党中央委員会統一戦線部から「謝罪文」が届いたのだ。「海上警戒勤務規定が承認した行動準則に基づいて10余発の銃弾を不法侵入者に向かって射撃」と認め、「金正恩同志もお詫びの気持ちを表している」とした。

「北がおびき寄せたのではないか」という推測が出て話が長引くよりも、イ氏が「自ら北に渡ろうとした」とすれば話が早く終わるのではないか。そう判断したという疑いが向けられているのだ。

何よりも軍部はイ氏の存在を海上で確認した後、文在寅大統領側にに報告したにもかかわらず、救助に向かった痕跡がない。面倒を避けた、という指摘も出ている。

国民の命に関わる真相の解明よりも、北に気を遣った。さらに映像などの資料が残っている可能性があるにもかかわらず、これを公開してこなかったのだ。

尹現政権はこれを正そうとしている。

16日の訂正発表後、韓国国会ではこの点で与野党が厳しい攻防を続けている。

尹錫悦大統領側の保守党「国民の力」の議員は、文在寅前大統領側の「ともに民主党」をこう攻撃しているという。

「民主党は絶えず正義と人権を強調する。しかし、はっきりと2つ、民主党自身と北朝鮮が例外」

16日、イ氏の遺族は「文前大統領を告訴することを考えている」と発表した。

今年5月9日を最後に大統領を退任後、慶山南道の田舎町で隠居生活を決め込んでいる文氏。自宅前に右翼デモ隊が押し寄せている件と合わせ、なかなか本人の望む「忘れられた一市民」となる道は遠く、険しそうだ。

参考記事:文在寅さんの穏やかな老後 右翼団体に妨害される 自宅前で連日抗議「スパイ野郎」「断頭台で切られろ」