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シングルファーザーを生きる~妻との死別の先に見えた新たなアクション(前編)~

吉田大樹労働・子育てジャーナリスト/グリーンパパプロジェクト代表
木村さん(写真中央)と生前の佳代子さん(右)、3人の子どもたち(木村さん提供)

【シリーズ】シングルファーザーを生きる

第6回 妻との死別の先に見えた新たなアクション(前編)

シングルファーザーを生きる――。男イコール仕事とみられがちな環境の中で、世のシングルファーザーたちはどう生き抜いてきたのか。各地で奮闘するシングルファーザーにクローズアップし、その実録を伝えていく。

今回は、茨城・水戸市在住で父親支援などに取り組む3児のシングルファーザーの木村隆弘さん(51)のインタビュー前編をお届けする。妻の約8か月のがんとの闘病生活を振り返ってもらった。

妻が末期のがんで闘病生活に

吉田 木村さんは妻の佳代子さんをがんで亡くされたとのことですが、がんだとわかったのはいつのことですか。

木村 2010年11月の初めです。市営アパートから戸建ての新居に引っ越した直後でした。風呂場から聞いたことのない悲鳴があったんです。「痛い!」と。急いで風呂場に向かうと、妻は首が痛くて動けなくなっていました。彼女を風呂場から引きずり出して、体を拭き、服を着させて、そこから横にしたのですが、起き上がることができません。これはただごとではないと思いました。

実は、その半年以上前から首の不調を訴えていました。常に痛みがあるわけではなかったのですが、徐々に痛みが強くなって、痛む時間も長くなってきました。整形外科に行きましたが原因がわからず。ブロック注射や痛み止めを処方しても改善されませんでした。

妻も自分で調べて評判のいい整形外科を予約したタイミングでした。ただ、早くても3週間先じゃないと診られないと言われて、その間ずっと横になっている状態でした。

当然、この状態ではパートの仕事にも行けないですよね。

吉田 佳代子さんは当時何の仕事をされていたんですか。

木村 ハンバーガーショップの夜間の仕事です。子どもたちに夜ご飯を食べさせて、寝かしつけて出かけるという感じでした。22時くらいから夜中の3時か4時くらいまで働いて、明け方に帰ってきていました。当時中学生だった長男を朝練に、小学生の娘を学校に送り出し、次男を幼稚園に送ってからようやく寝る、というサイクルでした。

当時自分は会社員でしたが、妻が倒れたときがいま思えばシングルファーザーの入口に立った瞬間でしたね。自分の両親や妻のお義母さんが手伝いに来てくれることもありましたが、基本的にはそこからは家のことは全部自分がやるしかなかったです。

吉田 佳代子さんの診断はどうでしたか。

木村 3週間後、その整形外科に受診できて、結果、脊髄の上から2番目の骨で首を左右に回すのに必要な部分にひびが入っていました。通常だったら鉄パイプのようなもので思いっきり叩かれでもしない限り、折れることのない骨です。

個別に医師に呼ばれて、消去法で問診するということで、まず自分がDVしたかどうかを聞かれました。あと、交通事故があったかや、レスリングなどの激しいスポーツをしたかとか。すべて該当しなかったので、医師から「非常に申し上げにくいが悪性腫瘍の疑いがあります」と言われました。そして、改めて検査をして、転移したがん細胞がその骨を攻撃した結果ということで、ステージⅣの末期症状で即入院でした。

一度自分が家に帰って、荷物をまとめて、それぞれの親にも伝えました。けど、妻には病院に戻った際に「原因はわからないけど、とにかく骨が折れているので絶対安静」とだけ伝えました。それ以上脊髄の骨折が広がると神経に直撃するので、最悪の場合は即死、良くても下半身がまったく動かない植物状態になるとのことでした。

吉田 佳代子さんにその事実を伝えるのはつらいですよね。

木村 一番つらいのは本人ですしね。あと、その時点で子どもたちにも伝えられませんでした。どう伝えればいいのか日々の生活がある中で非常に迷いましたね。

妻・佳代子さんの闘病生活について語る木村さん(筆者提供)
妻・佳代子さんの闘病生活について語る木村さん(筆者提供)

吉田 木村さんご自身がこの事実をどう解釈するかも時間がかかったんじゃないですか。

木村 とてもじゃないけど飲み込めないですよ。それでも何とかなるんじゃないかと思って、知り合いの医療関係者に電話して聞いたりもしましたが、この悪性腫瘍のことを聞いた瞬間に泣き出す人もいました。

吉田 その後、お子さんたちには伝えられましたか。

木村 伝えました。結局さらに検査をしたけど、悪性腫瘍であることは間違いなかったので。妻は次第に口が開けられない状態になりました。痛み止めを点滴で入れ続ける状態です。がん治療ができる茨城県内の病院に転院することになりました。

吉田 その病院に行くということはどのような病気かわかっちゃうわけですよね。

木村 転院する前に本人に告知をしました。ただ、ステージⅣだということは言えませんでした。告知を聞いた妻からの第一声は「ごめんね」でした。

吉田 その一言は重いですね。

木村 きつかったですね。妻は自分のことよりも、一人身になった自分の母親のことを心配していました。その2年前に妻の父親はがんで亡くなっていたので。妻には、「一緒に治療を頑張ろう」と伝えました。

脊椎のがんは結果として肺からの転移でしたが、元々どこが原発のがんなのかはわかりませんでした。医師から聞いた情報をメモして、帰ってからインターネットで調べたんです。全部最悪の結果でした。すでに脳以外ほぼ全身にがんが広がっていたので。

根治に向けた治療はありません。1日でも長く延命するための治療しかないと言われました。医師のほうも下手にこちら側が希望を持つといけないので、治せるとは言えません。けど、死ぬことを前提で話をされてもこちらは受け入れられませんよね。

吉田 切羽詰まった中でどうしようもない思いですよね。

木村 抗がん剤治療も最初は拒んでいました。ただの延命のためでしかないのですから。病院には、2日間時間がほしいと伝えました。その間に、自分でありとあらゆる方法がないかを探しました。担当の看護師長さんもチームを作って支えてくれました。妻を連れて帰れるよう一生懸命に働いてくれました。

治る見込みはないとは理解しましたが、病と共存を目指せるんだったら、そうしていこうと。看護師さんは妻と話をしてくれたんだと思います。首の痛みは続き、体調の急変などの不安もありました。抗がん剤治療に備えて院内の床屋で長かった髪を短く切ったときは妻と一緒に泣きましたね。

12月9日に転院しました。その1週間後から抗がん剤治療が始まりました。子どもたちにがんのことが言えたのはその5日後です。長男は黙っていましたが、娘は大泣きでしたね。次男はまだ幼稚園児でしたが、周りの雰囲気にのまれたのか、お姉ちゃんと一緒に泣いていました。

吉田 そこから佳代子さんの容態はどうなりましたか。

木村 抗がん剤治療が一定の効果があったこともあって、放射線治療も開始することができました。年明けの1月中旬に一時退院できるかもしれないという話にもなりました。食欲が戻ったのも大きかったですね。おいしいものが食べたいという話もできました。

毎日仕事が終わってから、あと仕事の合間にも病院に行きました。時には、妻が「病室から出たい」というので、病院内から筑波山に沈んでいく夕日を観たこともありました。

娘が吹奏楽部だったので、妻は発表する大会の様子を観たがっていましたね。それがかなわないので妻のストレスは溜まります。

妻退院し自宅で介護状態に~震災も経験

吉田 子どもたちのフォローはどうしていましたか。

木村 いまでも感謝しているのが、次男の幼稚園の発表会があったときに、おそろいで法被(はっぴ)を作らなければならなかったのですが、自分は裁縫ができないので、何も言わずに友達のお母さんがやっておいてくれたんです。がんが発覚してから転院するまでの間に、学校には「迷惑をかけると思います」と伝えていました。周りのバックアップがありがたかったですね。

妻のがんがわかるまで、自分は家事や子育ては一切やっていませんでした。最初は努力しようと思っていましたが、妻から「皿の洗い方が気に食わない」などと言われてしまうと、「じゃあ、やらない!」みたいな感じでだんだん遠ざかっていきましたね(笑)。風呂やおむつ交換くらいはやっていましたが、異性の娘のおむつはできませんでした。

典型的な家に早く帰りたくない状態(笑)。帰宅時間も23時くらいは当たり前。だから、後悔の思いは強いです。

吉田 佳代子さんが入院してから、ご飯を作ったり、子どもと触れ合ったりする中で、これまでの関わり方を振り返った感じですね。

木村 学ぶしかないですもんね(笑)。料理を作るのは結構好きだったので、妻がいるときもたまに自分の好きな材料を買ってきて作ったりはしていましたが、冷蔵庫にあるものでサクサクっと作るスキルはなかったですね。

吉田 お子さんたちは手伝ってくれたりしてくれましたか。

木村 いや、全然ですよ(笑)。ただ、子どもたちの気持ちを考えたら、そこまでは求めづらかったですね。子どもたちの気持ちに寄り添うことはできても、理解できるところまではいけてなかったと思います。子どもたちも相当ストレスを貯めていたはずです。

怒鳴って叱るもありました。いま思うと虐待と言われても仕方のない怒り方をすることもありました。すでに反抗期を卒業していた中学生の長男や、あまり手のかからなかった長女にはそんなに怒ることもありませんでした。が、次男に対しては怒ってばかりでしたね。次男は年中時にママが入院し、小1ではもうシングルファーザーだったので、自分も小学校のことでわからないことが多くって、いま思うとどうでもいいようなことで怒っていました。

給食で使うランチョンマットを家に持って帰ってくるのを忘れてきたことがあったんです。もうすでに暗くなっていましたが、すぐに車に乗せて「取って来い!」と言って小学校に連れていきました。

吉田 その時間、学校はまだ開いていたんですか。

木村 いや、もうすっかり暗かったのですが、次男もどうしたらいいのかわけがわからなかったと思います。「取って帰ってくるまで帰らない」と言って、自分1人車で待って、次男だけ学校に行かせたんです。近くの暗闇に車を待機していたんですが、次男も頭を使って、近くのコンビニに助けを呼びに行っちゃったんです。恐怖心を与えてしまったことは反省しています。

けど、自分も「木村さんちは母親がいないので仕方がないよね」と誰にも言わせたくなくって、自分を追い詰めてしまっていました。

吉田 1人で背負ってしまうと、気持ちがどうにも収まらないときがありますよね。夫婦であれば、どちらかが怒ったときにどちらかは引いて子どものフォローに回る、みたいなことができますが、ひとり親だと両方の役をやらなければならないので気持ちの切り替えも大変です。

その後、佳代子さんの状態に変化はありましたか。

木村 退院の話が2月から3月頃に出ました。自分と自分の母親がお風呂の入れ方などの付き添い方法を学んだりしました。介護認定を受けたので、ソーシャルワーカーに入ってもらって、ケアマネジャーと訪問看護師さんとの打ち合わせも重ねました。電動ベッドや歩行器なども借りました。簡易トイレも用意しました。元気なときの姿を知っているだけに介護は辛かったですね。

3月10日か11日に退院という段取りで進めていたんですが、本人が1日でも早く帰りたいということで3月10日になりました。ただ、子どもたちには11日退院のままにしてサプライズを仕掛けました。子どもたちも喜んでくれていましたね。

けど、翌日、東日本大震災が発生したんです。

吉田 3月10日に退院したというのは偶然にしては、大きな意味がありますね。

木村 翌日だったら、それどころじゃなくなっていたと思います。自分は家から15分くらい離れたところで地震に遭いました。ちょうどケアマネジャーが家に来てくれていたので、妻を外に連れ出してくれました。家の中はぐちゃぐちゃ。ライフラインも止まってしまいました。電動ベッドも電気がないと使えません。

震災後、車中で避難生活を2日間送り、余震がすごくて妻も車の中で過ごさなきゃならなかったので大変だったと思います。たまたまワゴン車だったので、助手席を倒して、枕だと高すぎて首の負担になるのでタオルで調節したりしていました。

その後、家のリビングに寝るスペースを確保して、炊き出しにも行けました。情報はママ友から。こうしたつながりは大きかったですね。

数日後に家の中で生活ができる状態にまで戻しました。ガスはプロパンだったのですぐに使えました。水道と電気も震災後何日かして復旧してくれたので乗り越えられました。

土・日・月が自分、火・水が義母、木・金が自分の母親というサイクルを作って、なんとかこなしていましたね。ただ、震災後、病院との連携が難しい状態でした。4月に入ってからようやく病院から連絡があって、最初の検査のときは現状維持でしたが、その次に行ったときに数値がまた上がり出していました。それがGW前くらいです。

腹水がたまり出していたんです。腹水がたまるのは良くないので薬で押さえていたのですが、まるで妊婦のような感じで下腹部が出てしまっていました。先生に呼ばれて、「ここまで来ると長くない」と言われて、つらい抗がん剤を選択肢として出してくれましたが、妻は「もう嫌だ」と断りました。黄疸の症状も出てきていたんですが、腹水を抜いてくれればそれでいいということに。妻の記憶もあいまいな状態になってきました。

6月に入って仕事先で電話が鳴って、義母から「ピクリとも動かない」と連絡があったんです。慌てて帰ったら、「疲れたからしゃべる気力がなかった」と妻が言いました。これはまずいと思って、救急車を手配するかを確認したら、「いいよ」と返事をするのですが、その「いいよ」が手配しなくて「いいよ」なのか、手配して「いいよ」なのかがわからなくて、結局手配しようと思って義母に救急車を呼んでもらいました。子どもたちがいる幼稚園、小・中学校にもそれぞれ連絡をして全員早退をさせました。近くの病院に連絡をしてとりあえず受け入れてもらいました。

そこの医師に「なぜこうなるまで放置したの?」と言われ、これまでの経緯を話しましたが、相当危険な状態になっていました。もう家に帰る体力は残っていません。そのまま自分も病院に泊まって、翌朝に一度家に帰って、それから職場に最低限の事情だけを話して、また家に戻ってご飯を作ったり、家事をしたり、その間に自分の母親が来てくれました。

その後、何日か持ちこたえていましたが、6月17日未明に息を引き取りました。手の施しようがないと言われてから半年以上もよくがんばってくれましたね。

千羽鶴・万羽鶴をもらったりして多くの人にお世話になりました。いまだにその鶴は残っています。次男が通っている幼稚園の先生たちが、妻が亡くなる1週間前にDVDを作ってくれて、日常の様子が映ったものでしたが、それを渡されたときは幼稚園の職員室で泣きましたね。

帰ってから妻にも見せたんです。彼女は画面を触りながら、子どもの名前を言い続けながら見ていました。あれはきつかったですね。わかってはいたんだと思います。あれが、自分がわかっている中で最後の母親としての姿でしたね。

子どもたちも最後は怖かったようで、病院に足を運ぶこともできませんでした。これは自分だから言えることだと思いますが、妻が亡くなったときホッとした思いでした。人の生死に限ってはどうにもならない。少なくとも死に向かっていく姿を見る必要はなくなったんですから。

吉田 ある意味、時間をかけて佳代子さんの死と向き合ってきたわけですよね。

木村 そうですね。もう10年以上経ちますが、否が応でも人生の転機になります。失ってからじゃないと本当に大切なものは見えてこないんだと思いました。ただ、それがわかっていても同じような過ちをしてしまうのが人間なんだと思います。すぐに気持ちを切り替えるのは難しかったですが、結局「自分はこれだけの経験をしているんだから何かしなくては」という気持ちが強くなって、自分なりに発信をしていこうと思うようになりました。

妻・佳代子さんの死を経て、どのようなアクションを木村さんは起こしたのか。(筆者提供)
妻・佳代子さんの死を経て、どのようなアクションを木村さんは起こしたのか。(筆者提供)

(後編につづく)

労働・子育てジャーナリスト/グリーンパパプロジェクト代表

1977年7月東京生まれ。2003年3月日本大学大学院法学研究科修士課程修了(政治学修士)。労働専門誌の記者を経て、12年7月から2年間ファザーリング・ジャパン代表。これまで内閣府「子ども・子育て会議」委員、厚労省「イクメンプロジェクト推進委員会」委員を歴任。現在、内閣官房「「就学前のこどもの育ちに係る基本的な指針」に関する有識者懇談会」委員、厚生労働省「子どもの預かりサービスの在り方に関する専門委員会」委員、東京都「子供・子育て会議」委員などを務める。3児のシングルファーザーで、小・中・高のPTA会長を経験し、現在は鴻巣市PTA連合会会長。著書「パパの働き方が社会を変える!」(労働調査会)。

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