Yahoo!ニュース

シングルファーザーを生きる~学童から子どもを取り巻く環境を変えたい~

吉田大樹労働・子育てジャーナリスト/グリーンパパプロジェクト代表
阿部隼人さん(中央)と長男詩恩さん(右)と次男惺水(せなん)さん(筆者撮影)

【シリーズ】シングルファーザーを生きる 第4回

学童から子どもの取り巻く環境を変えたい

シングルファーザーを生きる――。男イコール仕事とみられがちな環境の中で、世のシングルファーザーたちはどう生き抜いてきたのか。各地で奮闘するシングルファーザーにクローズアップし、その実録を伝えていく。

今回は、埼玉・所沢市で所沢学童保護者会連絡協議会(連協)の会長を務める阿部隼人さん(43)。離別して2人の息子を育てるシングルファーザーだ。ぜんそくと精神的な病を抱えていた妻との中での様々な葛藤を経験し離婚を選択。その後、元妻との復縁を考えていた矢先にそのぜんそくが原因で元妻を亡くしてしまう。その後、2人の子どもを育てる中で、学童(放課後児童クラブ)との関係が生まれたことで、連協の活動や居場所づくりにも積極的に取り組んでいる。

ぜんそくとボーダーライン~課題を抱えた妻との出会い

吉田  阿部さんは自分と同じ1977年生まれですが、お子さんがこの春から高校を卒業して社会人になられたとのこと。20代前半にはパパになったということで、結婚も早かったんですね。

筆者撮影
筆者撮影

阿部  23歳のときに1つ下の望(のぞみ)と結婚しました。19歳の頃から付き合いを始めて、学生時代には同棲をしていて、その流れで結婚をした感じです。学生時代は大分にいました。お互い出身が北海道なのですが、大分で一緒に暮らすことにしたんです。

 望はぜんそくが影響して普通の生活ができなかったので養護学校(現・特別支援学校)に通っていました。僕の中学校のときの親友が高校から養護学校に通っていたのがきっかけで、夏休みに大分から帰ってその養護学校の文化祭に行ったときに彼女とたまたま知り合いました。

吉田  大分に来てからはぜんそくの症状は治まったんですか。

阿部  いや、全然です。重度のぜんそくなので何度か重篤な状態になりかけました。冬に外で少し冷たい空気を吸ったときやアイスクリームを食べたとき、猫などの動物に接触したりしたときにも発作を起こし、そのたびに救急車を呼ぶ感じでした。しかも、そうした環境の影響もあって、境界性パーソナリティ障害という症状に至っていました。

 診断名がはっきりとわかったのは、僕が東京のIT企業に就職した後です。当時、埼玉の草加市に住んでいましたが、不眠の症状がひどくて精神科病院を受診したところ、それが判明しました。

吉田  東京のIT企業に就職したのはいつですか。

阿部  2000年にシステムエンジニアとして採用されました。当時は就職氷河期で、目指していた航空関係の企業が全滅で、大学のゼミの指導教授に40人ほどのIT企業を紹介してもらいました。

 草加市に住むことにしたのは、仲が良かった望のお姉さんがそこに住んでいたからで、そのタイミングで結婚をしました。

吉田  なぜ望さんは不眠に陥ったんですか。

阿部  大分にいるときは、同じコンビニで働いていたこともあって、大学以外は始終一緒で寂しくなかったので不安な気持ちにならなかったんだと思います。けど、草加に来てからは、昼間はずっと1人だったので、新しい環境もあって不安になったのかもしれません。

 何度か仕事中に電話が来て、「ぜんそくの発作で苦しいから、救急車を呼んでほしい」と頼まれたことがありました。ひどいときはしゃべれないこともあって、電話越しで喘鳴でヒューヒューと言っているのが聞こえてきたので、僕が救急車を呼んだこともありました。そういった状況で不眠になったのかなと思っています。

吉田  そうした中で望さんが妊娠したんですね。

阿部  2人でわくわくしながら生まれるのを待っていましたね。妊娠中は精神的にも安定していました。

吉田  ぜんそくもあるので気を付けないといけませんよね。

阿部  出産するときに発作を起こしてしまうと、母子共に危険な状態になるので、いろいろと病院も対応してくれました。だから、生まれたときは、喜びよりも発作を起こさずにここまできちんと生まれてきてくれたという安心感が先に来ましたね。

仕事と家庭を支える状況に

吉田  出産後の望さんの様子はいかがでしたか。

阿部  出産後しばらくは特に問題はありませんでした。しかし、長男が1歳くらいになったときに、息子もぜんそくの発作を起こし始めたんです。救急病院に行ったり、入院したりすることもあったので、その辺りから望も疲れてしまって、育児ノイローゼ状態になりました。

 そのとき、まだ自分が夜6時、7時くらいまで仕事をしていたので、育児はほとんど望に任せていました。そのうち、望も体調を崩すようになってしまい、母子2人がぜんそくで入院したこともありました。

吉田  そのとき仕事はどうしたんですか。

阿部  有休を取って病院に行っていました。病院で母子が一緒にいるときはいいのですが、息子だけのときは小さいから付き添っていなければいけないので、望の体調が悪いときは、自分が付き添って、朝、病院から会社に行くことも何度かありましたね。

 逆に、息子が元気に戻ってきても望が入院していることもあり、仕事をしながら保育園に通わせるのが難しくて・・・。それで長男が2歳を過ぎてから、児童相談所に相談しに行ったんです。

吉田  児相に相談したのは阿部さん自身の判断ですか。

阿部  そうです。自分が児相に行って、「妻が入退院を繰り返しているので何か方法はないか」と聞いたときに、「その環境はあまり良くないから、一度乳児院に預けたほうがいいのではないか」ということになり、そうしました。

吉田  乳児院にはどのくらい預けていましたか。

阿部  乳児院は半年くらいですね。最初は望が入院している1、2週間だけ乳児院にいて、退院したら息子を連れて帰ることを2回くらい繰り返していました。でも、「行ったり来たりは逆に息子さんに良くないので、落ち着くまでの半年間くらいは乳児院で預かります」と言われました。

 週末は2人で乳児院に行って息子に会っていました。本当はもう少し早く引き取る予定だったのですが、僕も椎間板ヘルニアになってしまって、長引いてしまいました。

 その途中で息子が3歳になってしまったので、今度は乳児院から児童養護施設に移され、そこでさらに4ヵ月ほど預かってもらいました。施設の場所が毛呂山町にあったので、草加から毛呂山まで2時間くらいかけて行っていましたが、あのときは本当に大変でしたね。

吉田  計10カ月くらいは離れて過ごしていたんですね。その間の望さんの様子は精神的な面も含めてどうでしたか。

阿部  息子が戻ってきたときは落ち着いていました。それが2004年の8月。年が明けてから、所沢に引っ越しました。

吉田  会社には家の状況を話していたんですか。

阿部  入社して1、2年目のときはなかなか言いづらかったんですが、3、4年になったときには望が入院も繰り返していたので、育児の負担を減らすために、フレックスタイム制度を使って、勤務時間を朝7時くらいからの早出出勤に前倒しして、午後3、4時くらいには帰れるように取り計らってもらいました。

吉田  同僚の方の目なども気になったりしますよね。けど、そこで自分の状況にしっかり対応してくれる関係が会社と構築できていたのは良かったですね。

阿部  朝早く出社するようになって、フロア掃除のおばさんと会うようになりました。自然と話すようになり、家の事情も話すようになったんです。そこで、その方が所沢市内に貸家を持っているということで、毛呂山にも近いのもあり、2005年に入ってから所沢に引っ越すことになりました。

吉田  引っ越すに当たって、不安はありませんでしたか。

阿部  引っ越しで姉から離れる不安はあったのですが、若干姉に依存しているところもあったので、自分たちが自立するためにもいいきっかけかなと思いました。

吉田  所沢に来てからも児童養護施設に預けていたんですか。

阿部  いや、引っ越すタイミングで引き取りました。毛呂山が近くなったので、長男を引き取ってからも施設が主催するバザーなどのイベントに遊びに行ったりしていました。

吉田  そうした児相や乳児院・児童養護施設との関わりは、阿部さんにとってどのような影響がありましたか。

阿部  施設に面会に行くと、面会者用のノートに自分の名前を書く欄があるのですが、一番ショッキングだったのは、何十人と子どもが預けられているにもかかわらず、1週間前に自分が面会に来た後に誰も来ていないことがわかるんです。「自分以外の親は誰も来ないのですか?」と職員の人と話をしたら、「電話すらかけてこない人がほとんど。阿部さんのように毎週来るのは本当にまれです」と言われました。その辺りから子育てについての問題意識を強く持つようになりました。

吉田  「子育ては自分の子どもだけを育てることではない」という気持ちが、常に残っていたかもしれないですね。所沢に引っ越してから、望さんに変化はありましたか。

阿部  所沢に来てまもなくして、2005年8月に次男が生まれました。ただ、夜中の授乳が睡眠薬などを飲んでいた影響もあって難しかったですね。一戸建てだったので、2階の部屋に長男と望が寝て、下の部屋に生まれたばかりの次男と僕が寝て、僕がずっと夜中にミルクをあげていました。僕の中では望に負担を掛けたくないという思いがあったので、そのときは会社から夕方4時くらいには帰ってきて、掃除をしたり、夕食を作ったりして、家のこともだいぶやっていましたね。

吉田  その頃から家事も育児もフル回転だったんですね。

阿部  朝は5時には家を出なければいけなかったので、そのときには2階に次男を連れていって、あとは望にお願いする感じの生活を送っていましたね。

吉田  それはどれくらいの期間ですか。

阿部  次男がまとまった睡眠が取れるまでやっていたと思います。長男は、朝になって望が保育園に連れていったので、日中は次男だけ面倒をみていました。翌年には次男も0歳児クラスで保育園に入れたので、そこからは望の負担もだいぶ軽くなったと思いますが、常に育児ノイローゼの兆候はありましたね。

吉田  産後うつ的な状況ですか。

阿部  家に帰ると、次男が部屋の中で大泣きしていて、望はどこに行ったんだろうと思ったら、ベランダで横になって寝てしまっていることもありました。睡眠薬の飲み過ぎが原因です。それから金庫を買ってきて、望が勝手に取り出せないように僕が薬を管理するようになりました。

吉田  命の危険もあるから怖いですね。

筆者撮影
筆者撮影

阿部  あまり穏やかな生活ではありませんでしたが、会社の理解もあったので、しばらくすると、落ち着いた感じもありました。望も体調的に大丈夫そうだったので、本人の意向もあって、夜に働き始めたんです。

 正直嫌ではあったんですが、家に閉じ込めるのも精神的に余計良くないかと思って、社会勉強的な気持ちで送り出しました。それが本人としてはすごく向いていたようで、いろいろな人と話ができて、ストレスの発散と言うか、気持ちの発散ができたりして、最初の頃はいい感じで働いていました。

 ただ、やはりぜんそくの症状が出るので休んだ時期もありました。

吉田  それについて阿部さん自身のリアクションはどうだったのですか。

阿部  望を何とかしなければというよりも、子どもたちが第一優先でしたからね。仕事に行くなと引き止めてぎくしゃくするくらいだったら、外に行って発散しておいでという感じです。

吉田  その状況がどれくらい続くのですか。

阿部  2007年の1年間くらいですね。2007年末頃に望から離婚の話が出てきました。

吉田  それはどのような理由ですか。

阿部  あまり具体的には聞きませんでした。離婚の話が出ても、やはり子どもたちがいるので、「子どもをどうするんだ!」と2回くらいは断りました。

 しかし、長男も小学校に上がったタイミングで、朝、ベロベロに酔っ払って帰ってくるので、結局、学校に行けなかった日が何日かありました。次男を保育園に連れていったら、先生から「お母さんがお酒臭くて」ということを聞いて、そのようなことが繰り返しありました。

 学校に行けていないのがわかったときに、これはいくら母親だからと言っても、ずっと望といることが本当に子どもたちの幸せかどうか、子どもたちはまだママのことが好きでしたが、このような姿を見せて、いつかママを嫌いになる時期が来てしまうかもしれないと思ったので、2008年9月に離婚を決めました。

シングルファーザーになってからの生活

吉田  2人のお子さんは阿部さんが引き取られたわけですが、3人での生活はどのような感じになりましたか。

阿部  下の子を保育園に預けてから会社に行くと、フルタイムが難しくなり、短時間勤務のような形になってしまいました。それまでは給与も残業代で膨らませていたので、それがほぼできなくなり、半分近く給与が減ってしまった感じです。

吉田  よく持ち堪えましたね。まだ阿部さんはそのとき20代ですよね。

阿部  そうです。父子家庭になったばかりの頃は、貯蓄をどんどん切り崩しながら乗り切っていましたが、1年くらいすると底が見えてきて、給料日まで何日間かあったときに手元にもう1,000円くらいしかなくって、子どもたちにはお米だけ食べさせて、自分は2日間くらい食べなかったこともありました。

吉田  体がよく持ちましたね。

阿部  体重が1年間で13kgも落ちました。

吉田  当時はまだ児童扶養手当が父子家庭に支給されてない時期でしたよね。

阿部  児童扶養手当もなく、お金も減っていくし、何か家計のやりくりを考えなければいけなかったので、とりあえず自分の昼めしを減らしましたね。

ブログでの発信からシングルファーザーたちとつながる

吉田  そんな状況の中で、阿部さんはどのように行動したんですか。

阿部  元々、父子家庭になる前の2006年頃からブログをやっていました。子育てのことを載せようと思って始めたんです。シングルファーザーになってからは、自分の心境や状況をまめに発信するようになって、2009年には「所沢・父子家庭の会」を立ち上げたことを報告したりしていました。

 そのブログを仙台市在住のシングルファーザーの村上吉宣さんが見てくれて、声を掛けられたんです。その後、父子家庭同士でメーリングリストを作って情報交換をしていました。自分の家庭のことでいっぱいいっぱいな状況でしたが、児童扶養手当が父子家庭にも給付されるように厚生労働省に陳情しに行くという話をもらって、記者会見にも参加させてもらいました。

吉田  その後、何か変化はありましたか。

阿部  マスコミの取材機会が増えましたね。いまの父子家庭の現状を話していく中で、自分が置かれている状況が自分の中で整理できてきたのかと思います。特殊な環境であることや問題がいろいろあることなどを徐々に発信しながら、社会とどう向き合っていくかを考えるようになりました。

吉田  当然、息子さん2人が小学校に上がる状況になってくると、なおさら地域との関係も大事になっていったかと思います。時間的にも制約がある中で、1人でどうこなしていましたか。

阿部  離婚後すぐは、うちの母が月曜日に所沢に来て、家のことを手伝ってもらいながら、金曜日に北海道に帰るということを2週間置きくらいで繰り返してくれました。

 母は実家で塾を開いていたのですが、それを一時休止してこちらに来てくれたので、当時の塾の生徒さんには本当に申し訳ないことをしましたね。

吉田  やはり息子のことを心配していたのでしょうね。

阿部  それが結局、2008年11月に母親が「今回で最後だよ」と言って、金曜日に帰ったときに実家で父が倒れていました。実はこっちに来ている間に急性心不全で倒れてしまっていて、母が帰ったときには死後何日か経っている状況でした。

 なので、事件性があるかもしれないので警察が来たりと大変だったようです。母が向こうにいればすぐに気付けたのかもしれないなど、いろいろな思うところがありましたね。

吉田  それは精神的に結構きついですね。

阿部  ただ、自分1人でやっていかなければという気持ちががっちりと決まったのもそのときでしたね。

吉田  北海道の実家に帰ることは考えましたか。

阿部  いいえ、仕事があるのでそれは考えませんでした。やはり会社の理解が大きかったので、北海道に帰って同じような会社に出合えるという保障はありませんからね。

元妻の死

吉田  離婚後、望さんとの関係はどうなっていきましたか。

阿部  子どもたちが起きているときには会わせませんでしたが、寝ている間に子どもに会いに来たりして、望と話す機会が何度かありました。望も離婚したことをすごく後悔してきているのが徐々に感じられました。望から復縁の話が出ましたが、また一緒になったところで同じ結果が繰り返されるのも嫌でしたし、そもそも父が亡くなった原因が、結局自分が父子家庭になったからという気持ちが強くて、そう簡単に復縁とはいきません。ただ、あまりどろどろとした感じではなかったです。

 しばらくして、望のやり直したい気持ちがだいぶ伝わってきたので、復縁を考え始めていました。子どもたちにとっては母親ですしね。

 しかし、こちらが前向きに考えようと電話で話した矢先、彼女はぜんそくの発作が原因で亡くなってしまいました。息子2人の写真が入ったキーホルダーを握りしめたまま亡くなっていたようです。亡くなった日の夜にお姉さんから、「今日、望が亡くなりました」と連絡がありました。

吉田  それを聞いたときの気持ちはどうでしたか。

阿部  すぐには理解しきれませんでした。覚悟はどこかでしていて、もちろん離婚をしたときに、いままで薬の管理は全部僕がやっていたので、1人になったらそれができなくなります。そのことは望のお母さんにも伝えていました。離婚後、あまりいい方向に向かうとは思っていませんでしたが、それが現実になってしまったという思いでした。

 葬儀には子どもたちも一緒に立ち会うことができました。

吉田  お子さんたちにはどのように説明しましたか。

阿部  正直に「お母さんが亡くなってしまったよ」と話をしました。

吉田  それを伝えたときに子どもたちがどのような反応だったのか覚えていますか。

筆者撮影
筆者撮影

阿部  長男はショックだったとは思いますが、離婚から10カ月間会っていなかったので、すでに3人での生活が日常になっていたので、ピンとこないところもあったと思います。

 次男は実際に亡くなった遺体があるところにいても、ママが亡くなっている、死んでいるという意識がなかったように思います。まだ4歳になる手前でした。コップにお水を汲んできて、望のところに行って、「ママが起きたら飲むかな」と言ったりしていました。

吉田  葬儀は身内だけですか。

阿部  身内だけでやりました。御骨は苫小牧の望の実家にもありますが、うちにも分骨した御骨と、ちゃんとした遺影ではないですが、望の写真は常に飾ったままです。子どもたちの母親ではあるので、家でお花を供えたりもしています。

 あと、北海道に帰省したときは、必ず望の実家にも寄って、孫の顔を見せに行っています。

吉田  子どもたちにとっては、おじいちゃん、おばあちゃんですもんね。

阿部  お義父さん、お義母さんもそれは快く受け入れてくれています。いまでも申し訳ないと思われていて、僕が望が生んだ子どもたちを育ててくれているという感謝の気持ちを受けています。

学童との出会い

吉田  2人とも小学校に入ってからはどのような生活になりましたか。

阿部  2012年4月から次男も小学校に上がり、2人とも学童に預けることになったんです。元々、長男は学童に入れていましたが、次男が学童に通うようになってから、学童に対する思いが強くなってきました。

吉田  何かきっかけがあったんですか。

阿部  長期休みのときは、朝、親が学童に連れていかなければならないのですが、保育園は朝7時からですが、学童は8時からなんです。

吉田  時間がずれてしまうんですね。

阿部  次男がまだ保育園に通っているときは、保育園だけ預けに行って、上の子は家で留守番をさせていました。

吉田  1人で学童に行かせていたんですか。

阿部  いや、同じ学童に子どもを通わせているお母さんが車で来て一緒に連れていってくれるようになって、お母さん方が協力して順番に迎えに来てくれたんです。

 そのときに、親のつながりのありがたさをすごく感じました。特に、長男は発達障害もあったので、学童の支援員さんに子育てのことで悩みを打ち明けることもありました。

 学童に預けていて良かったと思うのが、さっきの親同士のつながりもそうですが、子どものことを相談しておくと、どんな感じで日中過ごしているかを毎日教えてくれます。親も集団生活の中でどんな感じで過ごしているのかがわからないので。一番子どもの成長がわかって、意見を的確に話してくれるのが学童の支援員さんだったんですよね。

吉田  そこは、学校の先生よりも頼りになりましたか。

阿部  そうですね。支援員の方にはほぼ毎日会いますからね。学校はあくまでも教育的なところでしか子どもたちを見てくれていないと感じていました。それに対して、学童の支援員さんは子どもの成長だったり、主に生活面ですよね。1年生のときはこう、2年生ではこんな成長があったとかを見ていてくれるので、本当に頼りになりました。

学童が抱える課題に触れて

吉田  その後、学童との関係はどのように広がっていきましたか。

阿部  子どもたちが学童に通った10年間で、学童の保護者会会長を3年務めていました。学童に子どもたちを預けていて助けられたことや、そして学童の中で子どもたちが成長できるんだということを目の当たりにして、学童との関わりは深まっていきました。

 さらに、2015年4月に子ども・子育て支援新制度が始まるに当たって、所沢市でも新たに放課後児童クラブに関する条例が制定されました。それまで学童は公的な施設を使ってNPOが民間委託で運営されてきましたが、市が直営でやるか、指定管理者制度を入れなければいけないということになり、結果、指定管理者制度を導入しました。当然、公募に出さなければいけません。

 いままで同じ支援員さんが継続して子どもたちを見てくれている中で、運営主体が変わったら、支援員も入れ替わってしまう可能性もあるわけです。そんな環境は学童にとっては良くないということを市に伝えました。

 あとは、どんどんと学童への需要が増えてきています。子どもの数自体は減っていますが、40人くらいの施設の広さのところに、70~80人の子どもが入っているのが現状です。しかも、プレハブで築年数もかなり経っているので、エアコンがあまり効かなかったりで、とても環境が良いとは言えません。

吉田  子どもたちが育つ環境に大幅の変化があるのは良くないですし、それを行政に伝えていくことは大事ですね。所沢学童保護者会連絡協議会(連協)の会長になったのはいつですか。

阿部  会長は2015年からです。そこから、所沢市の市議会議員の方にも会うようになりました。最初は連協として話をしに行こうとしたら、ちゃんと相手をしてくれなかったので、連協とは名乗らずに、子どもたちの置かれている状況を知ってほしいと訴えていく中で、だいぶそれで道が開けてきて、実際に議員さんにも学童施設を視察しに来てもらって、こんな環境で子どもたちが預けられているということを理解してもらいました。

吉田  なかなか現状を知らない議員も多いと思うので、実際の現場を見てもらうことは大事ですね。

阿部  それから、これは早く改善しないといけないという動きになってきましたね。

吉田  市町村議会議員の大きな役割は行政施策のチェックだと思いますが、ちゃんと現場のことを理解していなければ、チェックもできませんよね。結局、施策も後回しにされることになりかねません。継続して訴えていって、理解を深めていくという感じですかね。

阿部  最近ようやく施策の改善を要求できるスタートラインに立てた気がします。

吉田  しかし、阿部さんのお子さんはすでに小学校にはいないのが残念ですね。それでも、阿部さんが連協のメンバーとして活動を続けているのは強い志がないとできない気がします。

阿部  いまのこの環境を改善していかなきゃいけないという強い思いがあって、子どもが卒業してもそのまま連協に残りました。会長も続けています。

吉田  PTAとかもそうですが、自分の子どもが卒業したら、はい終わりな感じになりそうですが、それでも学童に関わり続ける思いというのは、逆にお子さんたちが学童で育ってきたからこそ沸き起こるものですよね。自分の子どもだけではなく、他の子どもについてもちゃんとした環境を提供してあげたいという気持ちから来るのだと思います。

阿部  いまの所沢市の学童がすし詰めの状態になってしまっているので、学童の機能をちゃんと果たすためにはどうすればいいのかということを考えるようになりました。例えば、大人になってからの課題って成長時期に形成されることが多いと思います。だからこそ、学校生活だけじゃなくって、学童における生活も大事になります。やっとこの所沢市が動き始めている段階で、子どもが学童を卒業したからおしまいではなく、最後まで見届けたいという気持ちです。

 そのためには、まずは人数を適正にしようよというところから始まるんだと思います。

吉田  適正な人数にしていくためには、やはり新しく学童施設を増やすことが必要ですよね。そのためには、当然用地の確保が求められますね。

阿部  実際には学校外の用地の確保が難しいので、主には学校の空き教室を使うことになると思います。それを推進していくためには、放課後児童クラブを運営する放課後児童健全育成事業としてだけではなく、放課後子ども教室推進事業を組み合わせて、国が推奨している「放課後子ども総合プラン」として実施していく必要があると思います。

 現実には、学校を所管している教育委員会との調整がいろいろと大変ですが、最近ではそれが動き出していると実感しています。

これから作りたい支援の形

吉田  そこはまだ道半ばというか、まだまだやるべきことがあるんですかね。

阿部  そうですね。そうした活動をしていく中で、「子ども地域ネットワーク 所沢」という団体を2017年9月に作りました。小学生だけに限らず、中高生に対しての支援もしたい思いからです。元々は学童関係で動いているときに、子どもを中心に考えてくれていないという思いがあったので、それもあって、子どもの権利条約のことを考えるような活動がしたかったんです。

 目指したい形が、宮城・石巻市子どもセンター「らいつ」です。管理しているのは大人ですが、子どもたちが中心になってどういうイベントを開催するかを会議で話し合って、子どもたちで企画するんです。中高生とか年齢が上の子たちが小学生などの下の子たちを巻き込みながら進めていくんですが、それ以外にも不登校の問題だったり、学習支援だったり、子どもたちの育ちを支援しています。

 どうしても勉強、勉強になってしまって、子どもたちにとって本当に大切なものが置き去りになってしまっているような気がします。それを支えていきたいですね。

吉田  子どもたちの自我がどんどんと芽生えて、それぞれ自分なりに考えて行動していくことが大切ですよね。親が全部管理するのは、はなっから難しい話。自分もひとり親になって実感しました。けど、そこをいろんな大人が見守ってあげられる環境を作ってあげなくちゃですよね。

阿部  第三の場所が必要かなと思うんです。家と学校以外に居られる場所。昔みたいに何か課題を抱えている子がグレてヤンキーになるようなことがいまは少なくなっています。そうした課題を抱えている子たちの受け皿になるような場所を作ってあげたいんです。

吉田  もうそこは阿部さん自身、父子家庭という枠を超えちゃっていますよね。父子家庭に限らずひとり親に対してアプローチしていくことはもちろん大事ですが、すべての子どもの育ちに関わる問題にアプローチしていくことで、負の連鎖が防げます。父子家庭だけが問題を抱えているわけではないし、子どもたちの居場所づくりという観点で、何かしら問題を抱えた子どもたちにとって、まずはその状況を受け止めてくれる環境が必要ですよね。

 阿部さん自身、仕事は仕事で今後も継続していくかと思いますが、その中で地域活動に注力していくのは大変じゃないですか。

阿部  自分がいまやろうとしていることがあまりにも大きいので、それで実際に何ができて、自分でどう動けるのかというところですね。

 ひとり親だけじゃなくって共働き世帯のところでも、両親とも帰ってくるのが遅いので、1人でご飯を食べるというケースも増えています。家族の形はいろいろあっても、置かれている子どもの状況に対して何か手を差し伸べられることは何かと漠然と思っているところです。それをもう少し将来的には形にして、10年くらいを目途にして、事業にしていきたいなという思いですね。

 そうした思いの中で、2019年6月から無料の自習室を始めたんです。

自習室で実施した高校受験模試の様子(阿部さん提供)
自習室で実施した高校受験模試の様子(阿部さん提供)

吉田  どこで始めたんですか。

阿部  以前から、中高生が勉強する場が必要だなと思っていて、たまたま自治会の区長さんと話をしたら、新しく建てた自治会館を使っていいという話になったんです。「土日の会議とかでしか使わないし、だったらもったいないからそこでやろう」ということで使わせてもらえることになりました。チラシをお手製で作って、周辺に配布したりしました。そうした費用は、所沢市社会福祉協議会からの補助を活用しています。

 自習室は基本的に水曜日の夜に2時間くらい開けています。学習サポートをしてくれる方も来てくれます。僕も数学だったら教えられるので、見守るだけじゃないですね。

 来てくれる子どもたちは学童の卒童生がほとんどです。新型コロナウイルスの影響で自習室も4月と5月は開けませんでしたが、6月になってから再開しました。先日は高校受験の模試もこの自習室で実施したんです。

吉田  阿部さんが取り組もうとしている大きな目標に向かって、地道かもしれませんがこうした活動の1つひとつが実を結ぶんだと思います。今日は、ありがとうございました。

[[image:image05|center|阿部さんと筆者](筆者撮影)]

(了)

労働・子育てジャーナリスト/グリーンパパプロジェクト代表

1977年7月東京生まれ。2003年3月日本大学大学院法学研究科修士課程修了(政治学修士)。労働専門誌の記者を経て、12年7月から2年間ファザーリング・ジャパン代表。これまで内閣府「子ども・子育て会議」委員、厚労省「イクメンプロジェクト推進委員会」委員を歴任。現在、内閣官房「「就学前のこどもの育ちに係る基本的な指針」に関する有識者懇談会」委員、厚生労働省「子どもの預かりサービスの在り方に関する専門委員会」委員、東京都「子供・子育て会議」委員などを務める。3児のシングルファーザーで、小・中・高のPTA会長を経験し、現在は鴻巣市PTA連合会会長。著書「パパの働き方が社会を変える!」(労働調査会)。

吉田大樹の最近の記事