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シングルファーザーを生きる~子ども食堂を立ち上げた思い~

吉田大樹労働・子育てジャーナリスト/グリーンパパプロジェクト代表
父子家庭支援から子ども食堂を始めた思いを語ってくれた渡邊修一さん

【シリーズ】シングルファーザーを生きる

第2回 子ども食堂を立ち上げた思い  

シングルファーザーを生きる――。男イコール仕事とみられがちな環境の中で、世のシングルファーザーたちはどう生き抜いてきたのか。各地で奮闘するシングルファーザーにクローズアップし、その実録を伝えていく。

今回は、静岡・浜松市でひとり親支援や子ども食堂の運営などを行っているNPO法人サステナブルネットの渡邊修一さん(56)だ。渡邊さんは離別後、長時間労働で働きながらも、2人のお子さんを育て、その後、父子家庭の支援を始めたことをきっかけに、子ども食堂にも力を入れている。その思いの根底にあるものは何であろうか。渡邊さんにその思いを伺った。

NPO法人サステナブルネット理事長の渡邊修一さん
NPO法人サステナブルネット理事長の渡邊修一さん

子どもが産まれてから

吉田  渡邊さんには2人の娘さんがいらっしゃいますが、お子さんが生まれたときはどんな様子だったか覚えていますか。

渡邊  子どもたちが生まれたときは東京・町田市に住んでました。長女が産まれたのが1991年(平成3)年。体重が2,000g以下の未熟児だったんです。この子を一目見て、「これは嫁さんにまかせておいたらとんでもないことになる。自分がなんとかしなきゃ」と思いました。父親ですが、父性よりも母性のほうが強かったんですね。一方で、赤ちゃんが泣いていても嫁さんは寝ているばかりでした。なので、夜中の授乳はすべて私が引き受け、4回授乳して4回寝かしつけることもありました。まともな睡眠ができず、家電量販店の店長という責務もあったので、このサイクルには正直気が狂いそうになりました。

吉田  家電量販店の店長の仕事もさぞ激務だったんでしょうね。

渡邊  そうですね。でも生後3ヵ月くらいしてもう無理だと思っていたら、だんだん子どもの夜泣きがおさまってきて何とかなりました。次女が産まれたのはその2年後の1993年です。下の子は1週間くらいで夜泣きがなくなったのですっごく楽でしたよ。ミルクもめちゃくちゃ飲んでくれましたし。

吉田  お子さんが2つ違いであれば子育ての感覚も覚えていたんですね。

渡邊  そうですね。嫁さんはパニック症候群からうつ病にも罹患していました。ほとんど毎日、朝からタバコを吸って、コーヒーを飲みながら宙をぼっーと見ているような日々でした。

吉田  タバコは産前もですか。

渡邊  そうですね、産前から産後まで吸っていましたね。私は吸わない人間でしたが。

吉田  タバコを止めさせられるような状態でもなかったんですね。

渡邊  さすがに出産の直前・直後は吸う回数が少なくなってはいましたが、基本的には変わらなかったですね。

吉田  そんな状態だと、なかなか夫婦生活を維持するのが難しかった感じですか。

渡邊  結婚していた期間は10年間でした。我慢しましたよ。夫婦2人での生活が5年、子どもがいる生活が5年くらいですね。2人目が産まれてからもそんな状態なので、嫁さんに対する愛情も一気に冷めてしまいました。かなりギリギリのところまで耐えていたんですが、結局離婚を決めたんです。

吉田  協議離婚だったんですか。

渡邊  そうです。実はそのとき私は娘たちを置いて単身赴任で浜松市に来てから1年以上が経っていました。最初は姉妹をひとりずつ分けてと嫁さんに言われたんですが、子どもたちのことが心配だったので、それを断って2人とも引き取ることになりました。離婚届を出す際は、家族全員で行きましたし、お互い納得していたと思います。

吉田  単身赴任したことがきっかけだったんですね。

渡邊  単身赴任するとうまくはいかないですね。会社の先輩からも「単身赴任するなよ。絶対家族を壊すよ」とアドバイスされてましたが、徐々に子どもがいない生活が寂しくなってきました。単身赴任になったとき、長女が小1、次女が年中で、かわいい盛りでしたからね。月1回くらい東京に帰ってましたが、見送りで子どもたちがバスを追いかけてきてくれるんです。その子どもたちの姿を見て、一緒に住むしかないと思ったんです。ただ、もう嫁さんとは暮らせないなと思っていたので、離婚を切り出した感じです。子どもたちを浜松に迎え入れたのはその翌年ですね。

当時を振り返る渡邊さん
当時を振り返る渡邊さん

父子家庭での生活

吉田  下の娘さんが年長ということは、保育所ということですね。

渡邊  どこでもいいから入れてくれと市役所に頼んだら、たまたま職場に一番近い保育所に入所することができました。

吉田  そこから父子家庭での生活になるわけですね。家事や子育てには苦労はしましたか。

渡邊  特にできないことはありませんでしたが、家電量販店の店長だったので、仕事と両立させるのがきつかったですね。17時頃になると店の売り上げを数えて、売上金の入った銀行バッグを持って、保育所と学童を回って娘たちを連れて、銀行に寄った後にコンビニに行くんです。「なんでもいいから買っていいよ」と子どもたちに言って、アパートに一旦帰ってから再び職場に戻ってました。

吉田  お子さんを置いて職場に戻っていたんですね。

渡邊  やはり店長なので戻らなきゃならないんです。店は20時まで営業していましたからね。21時に家に帰ってきて、子どもたちを風呂に入れてから、寝かしつけてましたね。

吉田  子どもたちとは一緒に寝られたんですか。

渡邊  まぁ、なんとか。ただ、そんなことを毎日やっていたら、とうとう無理がたたって腸閉塞になってしまいました。急にお腹が膨らんでくるんです。お腹は減っているのに、ガスでお腹が膨らむんです。怖いですよ。

吉田  何か事前に腸閉塞の兆候はなかったんですか。

渡邊  下痢は2、3日前からありました。その前日は回転ずしに行ったんですが、そんなに食べてないのに朝起きたら、ブクーってお腹が膨れていて、これはおかしいと。

吉田  痛みはあるんですか。

渡邊  これが、めちゃくちゃ痛いんです。じわーっと痛みがあって、そのうちお腹を抱えるくらい痛くなって、職場近くの内科に診てもらったら、すぐに入院しなさいと言われました。

吉田  えっ、お子さんはどうされたんですか。

渡邊  もう意識があまりなかったので、結果的には学校の先生が連れてきてくれたと思います。そのあと、鼻から管を入れる処置をするんですが、腸まで管を入れるので5mくらい入れるんです。ちょうどクリスマスの2、3日前で滋賀にいる兄貴が駆けつけてくれて、しばらく子どもたちを預かってくれました。

吉田  タイミングが良かったんですね・・・。入院はどれくらいでしたか。

渡邊  10日間くらいだったかな。原因は過労ですね。ポリープとかもなかったので完全にストレスです。腸が動くの止めちゃったんでしょうね。

吉田  精神的には大丈夫だと思っていても、肉体が拒否をしちゃったんですね。

渡邊  そうそう、本当にそうです。それまで自分はどんなに体に負担をかけても大丈夫と本当に思ってましたからね。おこがましいですが、自分はどこまでも無理ができると。仕事も家事もやりながら、バリバリやるぞと思ってました。

吉田  病気をして考え方は変わりましたか。

渡邊  180度コロッと変わりましたね。

吉田  どんな形で変わりましたか。

渡邊  それから1年くらいかかりましたが、会社を辞めました。

吉田  でも、1年間は頑張ったんですね・・・。

渡邊  そうですね(笑)

吉田  何かその間に次の仕事の準備もしてたんですか。

渡邊  いや、してなかったですね。仕事バカでしたから・・・。

吉田  家電量販店では休暇は取れてましたか。

渡邊  平日しか取れないですよね。土日は絶対取れないですしね。

吉田  土日はお子さんたちはどう過ごしていたんですか。

渡邊  まぁ、勝手に遊んでますよね。CS放送を契約して、アニメを朝から晩まで観させて、何とか乗り越えてました。もう、育児じゃないですよね。生きてたらとりあえず良かったって感じです。

吉田  まぁ、その気持ちはよく理解できます。

渡邊  そういうことをコラムで書いたりすると、虐待とか言われたりするんですけどね。あなたたちはそのときの気持ちなんてわかんないでしょうね、って話すんですよ。

吉田  とりあえず、目の前の「生きること」を乗り越えていかねばならないなかで、ある意味それは1つの手段だと思うんですよね。自分の場合は実家が比較的近くにあったので、頼ることができましたが。お子さんが病気のときはどうしていたんですか。

渡邊  ひどいときは店舗の事務所に連れてきていました。布団を敷いておくから寝ておけと。まぁ、そのことはいまでも子どもに怒られますがね。部下たちもすごくイヤな目で見ますよね。

吉田  子育てしている社員は渡邊さん以外にいなかったんですか。

渡邊  いましたよ。けど、そんな温かい目では見てくれなかったですね。「このどうしようもないヤモメ男には関わらないほうがいい」と思っていたと思いますよ(笑)

お子さんたちが小学生の頃
お子さんたちが小学生の頃

吉田  15年くらい前だとそういう雰囲気もまだまだ強かったんですかね。

渡邊  そうですね。そのころの思いはいまの活動にもつながっていますね。

吉田  家電量販店を辞めたあとはどうしたんですか。

渡邊  1年近く職業訓練校に行きました。それまでがあまりにも忙しかったので、何も考えないで黙々と学びました。夏休みもあったので、社会人になってから一番ゆったりした夏休みになりましたね。

吉田  ある意味自分を振り返る時間になったんですね。その後はどうしたんですか。

渡邊  土木緑化資材の会社に入りましたが、3、4人しかいない零細企業でした。ひとり親だと伝えていたので、社長からは「うちの嫁さんが面倒看るよ」と言ってくれたんです。しかし、2、3年して売上が下がってからはコロっと変わって、1~2週間出張に行ってこいと平気で言うようになりました。

吉田  えっ、出張のときはどうしたんですか。

渡邊  そのときは子どもたちが中1と小5くらいになってました。家に残して出張に行ってましたよ。やはり心配だったので、まだ当時は珍しかったんですが、ライブカメラをリビングに設置したんです。ただ、ライブカメラと言っても動画ではなく、自宅のパソコンに接続したセンサーが子どもたちの動きに反応して静止画を何枚か写して携帯に転送するというものでした。出張先のビジネスホテルで、「おっ生きてたな、良かった・・・」と思うわけです。電話すればいいじゃないかって思うかもしれないですけど、年頃もあって電話に出てくれないんですよね(笑)

吉田  当時、思春期だったと思いますが、親子の関係はどうでしたか。

渡邊  決して悪くはなかったと思いますよ。戦友みたいな感じですね。日曜日くらいは何とか休めていたので、3人で出かけたりすることもありました。その会社は忙しかったんですが、給与面はさほど悪くはなかったので、焼肉屋さんばっかり行ってましたね。ごはん作るのが面倒くさいので。

吉田  一番簡単な満足度を上げる方法ですよね(笑)

渡邊  そう、一番簡単だったんです。子どもたちも満足してぐちゃぐちゃ言わないですから。

当時の苦労も気さくに語ってくれた渡邊さん
当時の苦労も気さくに語ってくれた渡邊さん

吉田  この会社には結局何年間くらい勤めたんですか。

渡邊  4年間くらいですね。ストレスが重なってまた腸閉塞の症状が出ちゃったんです。さすがに続けるのが難しくなりましたね。その後、また職業訓練校に通って造園の勉強をしたんです。

父子家庭支援から子ども食堂へ

吉田  そこからどうやって父子家庭支援の活動につながっていくんですか。

渡邊  土木緑化資材や造園の経験を生かそうと思って、2010年11月に「浜松緑のカーテン応援団」というNPO法人を設立しました。翌年4月に浜松市制100周年事業として「100夢プロジェクト」というのがあって、市内の公共施設に初めて大型の緑のカーテンを設置する事業が採択されたんです。同時期にひとり親の思いを施策に生かせればと思って浜松市男女共同参画審議会の公募委員にも就任しました。ここでジェンダーを専門とする静岡大学情報学部の笹原恵教授と出会って、そろそろ父子家庭支援の活動を本格的にしたいと相談したんです。それがきっかけで、翌年に笹原研究室との協働で「ひとり親調査」事業を開始することができました。

吉田  緑化事業と同時並行的に進めたんですね。

渡邊  2013年の秋に浜松市男女共同参画パートナーシップ委託事業が採択されて、父親像を一緒に考えるワークショップを実施したりもしました。それ以外にも民間の助成金が獲得できたりして、活動が軌道に乗ってきました。活動も緑化事業からひとり親支援にシフトしてきたので、14年9月に現在の「サステナブルネット」へと名称を変更したんです。

吉田  サステナブル、つまり持続可能ということですよね。環境としても大事な言葉ですが、ひとり親などの支援をしていくためにも重要な意味を持ちますね。子ども食堂を始めるきっかけは何だったんですか。

渡邊  確か2015年の夏頃にNPO法人しんぐるまざーふぉーらむの赤石千衣子さんにお会いして、「最近子ども食堂が流行っている」と聞いたんです。それが頭に残っていて、浜松市の「みんなのはままつ創造プロジェクト助成」に応募して、「はままつやらまいか子ども食堂」の企画が通りました。16年6月から始めてるんですが、毎週開催で、大人も子どもも無料です。

「やらまいか子ども食堂」に参加した方々(前列左から2人目が渡邊さん)
「やらまいか子ども食堂」に参加した方々(前列左から2人目が渡邊さん)

吉田  無料というのは、貧困家庭が多いひとり親世帯にとってはありがたいですね。

渡邊  子ども食堂は、基本的には無料なんですよね。有料にしたら、保健所の営業許可が必要になります。それは非常に面倒です。だから、うちの場合は公民館の調理室を使っているので、調理と飲食スペースを区分けできません。逆に営業許可は絶対に取れないんです。現実的には、「営業許可を取ってまで得るところはあるのか」という話です。有料にすればいくら取らなきゃならないのかの話が出ますし、それを考えると無料のほうがやりやすいし、現実的だと思ってます。

吉田  毎週開催は他の子ども食堂と比べると多いですよね。

渡邊  2016年度は100万円の助成を受けていて、6月~3月で40回子ども食堂を実施しました。1回あたりの参加者は、12家族20名ほどです。ボランティアが5名、支援スタッフが4名で計30名ほどが参加しています。ボランティアには中学生も来てくれているんですよ。

吉田  どのように声をかけたんですか。

渡邊  近隣の中学校にチラシを渡したら来てくれたんです。募金も10万円ほど集めることができました。非常にありがたいですね。だから、どんどん宣伝しようと思っています。お米抜きで1回8千円を材料費として使っています。

吉田  子ども食堂を開催するにあたって何か気を付けていることはありますか。

渡邊  子どもたちには遠慮せずに腹いっぱい食べてもらいたいと思っています。あまり食育とは思っていなくて、まずは子どもたちが食べたいもの、例えば、唐揚げとか、ビーフシチューとか、肉が好きな子どもたちが多いのでその期待には応えていきたいですね。

吉田  そのときの親の様子はどうですか。

渡邊  親も孤立している方が多く、情報を得たいと思っているので、親同士の交流も盛んです。LINEでつながったりもしています。シングルファーザーの方も毎回2、3組が来てくれます。パパたちは遠慮して、なかなかシングルマザーのママさんたちには話しかけないことが多いですね。

吉田  その気持ちわかります。そういうときは、渡邊さんが手を差し伸べたりしているんですか。

渡邊  そうしたいところですが、まずは子どもたちを優先的に見ているので、そこまでケアできていないですね。

吉田  ひとり親家庭の学習支援にも取り組んでいますね。

渡邊  2015年6月から浜松市のひとり親家庭学習支援の運営も受託しています。静岡県母子寡婦福祉連合会が浜松市から委託されている事業を再委託される形で運営してます。土曜日に2コマ実施しています。子ども食堂も土曜日なので重なっていて大変です。ひとり親家庭だけの支援ですが、子どもたちは市が集めてくれます。民間で集めてもなかなか来ませんからね。ボランティアも市が集めてくれます。

吉田  学習中の子どもたちの様子はどうですか。

渡邊  小学4~6年生はぎゃあぎゃあと騒いでます(笑)。ボランティアの学生と教職員が立ち上がっちゃう子どもたちに対応できなかったりするときは、私が後ろでにらみを利かしています。落ち着きのない子に肩を揉んだりして、落ち着かせています。反対に、中学生は遊んでいるのがもったいないと思って先生にしっかり食らいついてきます。高校生も多少受け入れていますが、なかには勉強についていけなくて中退する子もいるので対応が難しいですね。

吉田  ひとり親の子どもたちは辛い体験をしている子も多いので、負の思いをプラスのエネルギーに変換してあげることが大事ですよね。親側も愛情が十分に子どもに届いているのか不安になるところです。自分もシングルファーザーなのでとても大きな課題だと感じます。

渡邊  実は、私自身も小5のときに両親を交通事故で亡くしているんです。腹違いの兄が2人いてそこのお宅で厄介になっていましたが、虐待も受けていました。その後2番目の兄と高校卒業まで2人暮らしをしていました。両親を亡くして感じたのは、小5の男の子を世間は受け入れてはくれないんだということです。だからこそ、自分は子どもたちをしっかりと受け入れてあげたいなと思っています。私が親を亡くしてから、シングルマザーだった友達のお母さんが自分の働いている食堂でカレーを毎週のようにごちそうしてくれました。いまでも当時のことをよく覚えています。いま子ども食堂に来てくれる子どもたちにもそんな思いをさせてあげたい。子どもたちが大きくなったときに、「子ども食堂でいっぱい食べさせてくれたおじさんがいたな」となればいいと思ってます。

吉田  そのときの体験が一生心に残るといいですよね。渡邊さん自身もいろいろな変遷があったとは思いますが、小5のときに感じた負の思いをプラスのエネルギーに変えて形にしていっているのではないかと思います。ひとり親からの相談もあると思いますが、どのように対応してますか。

渡邊  ひとり親も千差万別ですから、同じような事例でも対応が異なる場合があります。なので、いろんな方の意見を聞いて、橋渡しをしてます。つながりを持ったほうがいいと思ったら、「一度とにかく子ども食堂に来てください」と進めてます。

吉田  その入り口としてのサステナブルネットの役割は大きいですね。

渡邊  寄り道はしましたが、NPO法人も作ったし、緑化の活動もできたし、電気屋もやりましたしね(笑)。音楽がやりたいと思っていたんですけど、これは全然才能がなくてダメでした。けど、40歳くらいまで地道にやってたんですよ。

吉田  そこを乗り越えていまがあるんですよね。

渡邊  だから、いまは何でもできると思っています。でも、周囲は「本当にできるのか」という顔をして見てるんです。子ども食堂も最初はそうでした。「抱えきれなくて、放り投げるんじゃないか」って感じです。そうじゃないことを示していくためには、私自身もしっかり動いて実践していく。父子家庭で学んだことは、諦めないでしつこく忍耐強く続けていくことです。その姿を見せていくしかないかなと思っています。

渡邊さん(写真右)と筆者
渡邊さん(写真右)と筆者

(了)

労働・子育てジャーナリスト/グリーンパパプロジェクト代表

1977年7月東京生まれ。2003年3月日本大学大学院法学研究科修士課程修了(政治学修士)。労働専門誌の記者を経て、12年7月から2年間ファザーリング・ジャパン代表。これまで内閣府「子ども・子育て会議」委員、厚労省「イクメンプロジェクト推進委員会」委員を歴任。現在、内閣官房「「就学前のこどもの育ちに係る基本的な指針」に関する有識者懇談会」委員、厚生労働省「子どもの預かりサービスの在り方に関する専門委員会」委員、東京都「子供・子育て会議」委員などを務める。3児のシングルファーザーで、小・中・高のPTA会長を経験し、現在は鴻巣市PTA連合会会長。著書「パパの働き方が社会を変える!」(労働調査会)。

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