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高校野球の雑談②■■■■の校歌が泣ける!

楊順行スポーツライター
♬研磨のおたけび 来り聞け 大阪桐蔭の校歌はすっかりおなじみだ(写真:岡沢克郎/アフロ)

 白状すると昨年夏、仙台育英(宮城)が東北勢として初めて甲子園の優勝を果たしたとき。場内に流れる校歌を聞きながら、思わずジンときてしまった。

♬ここに根ざしし 育英の 

 わが学舎に 栄光(さかえ)あれ

 1915年の秋田中はともかく、それ以来の決勝進出だった69年・三沢(青森)の太田幸司さん、71年・磐城(福島)の田村隆寿さん、89年・仙台育英の大越基さんには、準優勝の経緯をつぶさに聞いたことがあるし、ほかにも2001年春・15年夏の仙台育英、03年夏の東北(宮城)、11年夏・12年春夏の光星学院(現八戸学院光星・青森)、18年夏の金足農(秋田)……と、東北勢があと一歩で頂点に届かなかったシーンを目の前で見てきた。それがついに。1世紀以上の時を超え、ついに優勝旗が白河の関を越えたのだ。

「校歌を歌いたい」というのは、高校球児にとって「勝ちたい」と同義語。最初に校歌演奏と校旗掲揚が行われたのは、29年のセンバツだ。発案者は、28年のアムステルダム五輪女子800メートルで、日本女子陸上史上初めての銀メダルを獲得した人見絹枝だという。26年に大阪毎日新聞に入社しており、オリンピック表彰式での国歌演奏と国旗掲揚に感激してヒントを得たらしい。その大会、最初に校歌を聞いたのは、大阪の八尾中である。夏の甲子園で採用されたのは57年だから、センバツからは28年遅れとずいぶんあとのことだ。99年のセンバツからは、勝利校だけが校歌を聴くのは気の毒という配慮で、2回表裏にそれぞれの校歌が流れるようになり、いまでは各地方大会もこれに倣っている。

 歌詞の格調高い伝統校、ポップな曲調の新興校。それぞれがおおむねいい曲で、常連校、肩入れしているチームの校歌を歌えるという高校野球ファンは多いだろう。僕が初めて覚えた校歌は、東海大相模(神奈川)のそれだ。

♬果てしも知らぬ 平原に

 相模の流れ せせらぎて

 東海大系列に共通の、ゆったりしたワルツ。その郷土に根ざした歌詞もいい。そうそう、同じ神奈川で思い出した。横浜の校歌もいいのだ。

「横浜の校歌が長くてなぁ。負けて聞くから、なおさらよ」

 と語ってくれたのは98年夏、松坂大輔で春夏連覇する横浜に、準決勝で敗れた明徳義塾(高知)・馬淵史郎監督だった。6対0の圧倒的リードから8、9回に7点を失い、サヨナラ負けした歴史的一戦を振り返ってもらったときだ。でも、いい歌ですよね……と切り返すと、「明徳のもええよ」と、フルコーラスを歌ってくれた。さらに、「愛媛の野球少年じゃったから、マツショウ(松山商)のもよく覚えとるよ」とこちらもフルコーラス。ただし、それを横で聞いていたやはり愛媛県人の上甲正典監督からは、歌詞の間違いを指摘されていたけど。

 個人的に好きな校歌をあげるとキリがないので、23年のセンバツ出場校に限ると、慶応(神奈川)の塾歌には魂がふるえるし、敦賀気比(福井)、龍谷大平安(京都)、大阪桐蔭、智弁和歌山、『この三とせ』のフレーズが印象的な広陵(広島)あたり。どうしても、甲子園で勝ち星の多いチームのそれを覚えますね。

長い校歌の最中にゲリラ豪雨……

 センバツでは、出場決定から大会までに時間的な余裕があるため、学校側が校歌の音源を用意する。これがときに、各校の個性が出ておもしろく、いつかの福岡工大城東のものは、女性ボーカルが出色だった。かと思えば、カラオケボックスで録音したのでは……と勘ぐるような手作り感満載の学校もある。

 校歌にまつわるトリビアとしては、たとえば花咲徳栄(埼玉)。1〜4番の歌詞がそれぞれ春夏秋冬を表しているため、センバツでは1番、夏は2番を歌うのだが、ことに夏の『燃え上がれ校庭』という歌詞がいい。歌詞なら、極めつきは倉敷工(岡山)ですね、『轟くエンジン 飛びちる火花』。校歌を流す側、大会本部の手違いもまれにある。たとえば84年センバツでは、勝った拓大紅陵(千葉)が整列して校歌を待っていると、流れてきたのは「法政、おおわが母校」という、敗れた法政二(神奈川)のメロディーで、ナインが顔を見合わせて苦笑いしたあと、本物の校歌が流れた。

 気の毒ながら笑ってしまったのが00年夏、柳川(福岡)が旭川大高(現旭川志峯・北北海道)に勝ったあとだ。整列し、校歌が流れている最中に、激しい夏の夕立が甲子園を襲う。柳川の校歌は、当時の末次秀樹監督が「日本一長い」と笑っていたほど長いだけに、なかなか終わらない。香月良太(元巨人ほか)らのいたチームはびしょ濡れで、校歌はうれしいけど、早く終わってくれ……と思っただろうなぁ。

 ちなみに筆者の母校は、柳川とは逆に校歌がきわめて短い。いま口ずさんでみたら、1番を歌い終わるのに20秒弱。在校時から、「もし甲子園に出たら、校旗掲揚が間に合わん……」と冗談をいっていたものだが、03年のセンバツに21世紀枠で初出場したときには、残念ながら敗れてしまった。校旗が揚がりきるかどうかは、いまだわからないままだ。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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