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[高校野球]前田三夫・帝京前監督の指導論/投手育成編

楊順行スポーツライター
1980年センバツ。若き日の前田三夫監督(写真:岡沢克郎/アフロ)

【帝京・前田三夫監督といえば、投手育成の名伯楽として定評がある。プロ入りしただけでも伊東昭光(元ヤクルト)、小林昭則(元ロッテ)、芝草宇宙(元日本ハムほか)、吉岡雄二(元巨人ほか)、三澤興一(元巨人ほか)、金剛弘樹(元中日)、上野貴久(元巨人)、高市俊(元ヤクルト)、上野大樹(元ロッテ)、大田阿斗里(元DeNAほか)、髙島祥平(元中日)、伊藤拓郎(元DeNA)、山﨑康晃(DeNA)、清水昇(ヤクルト)……。このうち高島と伊藤は、1年時から甲子園で登板しており、ことに伊藤は、2009年夏の甲子園で148キロをマーク。1年生では、史上最速といわれたものだ】 

 伊藤が入ってきたときには、田中将大(楽天)ばりのスライダーのキレに驚いたものです。体もしっかりしていたので、1年の春の関東大会から試合に使いました。ほかにも大田や高島は1年生から登板していますが、基本的には新入生をいきなりブルペンには入れません。芝草や三澤クラスでもそう。2年間厳しい練習をやってきた3年生と、昨日まで中学生だった1年生とでは、体が違いますからね。

 ですから、入学してきたらまず、体の強さを見ます。しっかりした体ができていないのに、3年生と同じ練習をさせるのはどだい無理ですし、ケガにもつながりますから。トレーニングと、心肺機能を高めるランニング、そしてしっかり食事をとらせながら、まずは体をつくっていきます。「体ができた」かどうかという判断基準は、目標体重やトレーニングの数値もそうですが、ユニフォームの着こなしですね。つくべきところに筋肉がついて、なぜかカッコよくなるんです。

 もっとも体づくりというのは地味なもので、1日で成果を実感できるわけじゃない。ですから、口を酸っぱくして意識づけをさせます。「上でも野球をやりたいという夢があるのなら、まず土台作りだ。その土台は、18歳までの積み重ねで決まるんだぞ」とね。そして頃合いを見て練習でボールを持たせ、追わせ、バットを振らせてさらに体ができてくる。雰囲気をつかむ意味で、投手候補をブルペンに入れることはありますが、最初は基本的には立ち投げです。1年生投手の場合、捕手を座らせて投げるのは、通常は夏前くらいでしょうか。

 むろん、もともと体に力があったら、その限りじゃありません。高島なんかは、入学してすぐにブルペンに入れました。というのも彼は、中学時代にアイスホッケーをやっていて、下半身が並外れて強じんだったんです。じゃあ、いざブルペンに入ったら、投手候補のどこを見るのか。まずはボールの質です。120キロ台でも、手もとで伸びるボールというのはやはり違います。終速が落ちないといいますか、いまの表現ならスピン量が多いということでしょう。

いいバントをしたつもりがフライに

 たとえば伊東なんかは、1980年のセンバツに出たとき、最速は128キロなんで周囲は不安視していましたが、僕は自信がありました。彼のボールは、手もとで伸びるんです。僕は、ピッチャーの球質を見るとき、自分で実際にバントをしてみて、その感触で判断するんですが、伊東のボールはいいバントをしたつもりでもフライになるんです。案の定、そのセンバツでは準優勝するわけです。

 僕には投手経験はありませんし、帝京というチームにも、長く投手コーチはいませんでした。ただ、こういうピッチャーが好き、という自分の理想像がある。できるだけそれに近づけたいというのが僕の育て方ですかね。理想像というのは、まず僕が高校時代に見た銚子商の木樽正明さん(元ロッテ)。僕の2学年上ですが、速かったですし、しなやかでね。

 それから監督になってからの73年には、江川卓(作新学院、元巨人)を見に、栃木県大会に行きました。怪物でしたよ。試合前の遠投では、軽く投げたボールがホームベースからバックスクリーンまで、糸を引くように伸びる。実際に、氏家とやったその日の試合では、いとも簡単にノーヒット・ノーランをやってしまいました。本格派が好きなのはきっと、そういう体験も影響しているんでしょう。投手というのはこうあるべきだ、という青写真ですね。

 それにしても、なにしろピッチャー経験がありませんから、技術書などを読んで必死に勉強しました。一眼レフカメラを買って、モータードライブで連続写真を撮ってみたりね。いまならスマホやタブレットで簡単に撮れるのに(笑)。そこで気がついたのはまず、踏み出し足のヒザが割れるとダメということです。体が開いて手投げになり、シュート回転してしまいますよね。そうではなく、下半身をどっしり使い、体重を乗せて投げろ、と。そういう指導をして伊東、また小林とセンバツで準優勝しましたので、ああ、このやり方でいいんだな、と確信したんです。

 大化けしたのが、芝草ですね。非常にいい回転のボールを投げるんですが、食は細いし、闘争心もない。そこで僕が意識的に挑発したり、プレッシャーをかけて、精神を鍛えていったんです。するといつの間にか堂々としてきて、87年のセンバツではベスト8、夏はベスト4でノーヒット・ノーランも達成しました。前年秋の防御率では出場校中ブービーだったんですから、まさに冬を越えての大化けでした。大田も精神的にひ弱で、上級生の叱咤に涙ぐむし、向かっていくようなところがない。一時はサジを投げて背番号を剥奪したら、「辞めたい」といい出す始末。だけどその薬が効いたのか、07年のセンバツでは20三振を奪うなど、非常にたくましくなってくれました。

 その子本来のフォームはほとんどいじりません。育成の過程ではまっすぐから入り、次に変化球にいくわけですが、そのときも「三振を取れるボールをひとつ作ったらどうだ」とヒントを与えるにとどめておきます。それが落ちるタマなのか、スライダーなのかは、各自で考えなさい、と。そこでしっかりとやる気になる子が、大成しますね。

 吉岡もそうでした。彼は中学で投げすぎてヒジが曲がったままで、高校ではピッチャーをやる気はなかったんです。ただ「将来はプロ野球選手」という夢を持っていましたから、「だったらピッチャーが一番アピールできるじゃないか」。これでその気になると、曲がったヒジを逆に武器にして、スライダーをモノにしました。それが、89年夏の初優勝につながったわけです。

【思い出したことがある。新チームのスタートとなる秋の大会。帝京には、背番号とポジションの一致する選手があまりいない。背番号3が投げていたり、1がサードを守っていたり。「ピッチャーには、いろんなポジションを経験させたいんです。適性を見るのはもちろんですが、ほかの野手の立場を経験させ、視野を広げる意味もあるんです。それは投球にも生きてくる。野手のエラーで腐ってしまうのではなく、“いまのバウンドはむずかしいよな、懸命に守ってくれている結果だ”と理解でき、それがチームの結束を強めていくんです」。ちなみに89年夏の優勝投手・吉岡雄二などは、キャッチャー以外の全ポジションを経験していた】

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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