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勇退する日大三・小倉全由監督曰く「こんちくしょう」の野球人生とは(その3)

楊順行スポーツライター
優勝した2011年夏の甲子園(写真:アフロ)

 1997年。日大三側が、送り出してくれる関東一に礼を尽くし、残った野球部員は信頼できるコーチに託し、日大三・小倉全由監督が誕生するのは、4月のことだった。

 関東一では、母校のやり方を注入し、短期間で結果に結びついたが、今度は逆に、関東一でやってきたことをそのまま持ち込んだ。名門だからといって、お行儀よく緻密に野球をやるのではなく、とにかく積極的に打っていこう。就任して最初の練習日、OB連がずらりと見守るなか、打撃練習で発したのは「オマエら、飛ばせよ!」の号令。OBたちが「そんなにでたらめに振らせるな」と不安顔のなか、倍賞明OB会長が、

「まあまあ、小倉に預けたんだから、ここは好きにやらせましょう」

 といってくれたのがありがたかった。3年目の99年にはセンバツ、そして14年ぶりの夏の甲子園に導き、01年にも春夏連続出場。「打たなきゃおもしろくない。フルスイングで遠くへ飛ばせ」を合言葉に、その01年夏には、当時最高記録となる.427というチーム打率を残し、念願の全国制覇を遂げた。

 監督を務める間はずっと、休日に自宅に帰る以外、単身赴任で生徒とともに合宿所に暮らしていた。練習で大きなカミナリを落としたあとは、選手を部屋に呼んでフォロー。スイーツをつまみながら、ざっくばらんに話をする。そういうコミュニケーションが、選手の新たな一面に気づかせてくれることもあった。

 01年夏の優勝は、近藤一樹(元ヤクルトなど)がエースだったが、好不調の波が激しく、試合中に突然乱れることが目立った。だが本人は、マウンド上でいつもニコニコ。そうしているうち、都築克幸(元中日)、内田和也(元ヤクルトなど)らのいた強力打線が、ひっくり返してくれる。ある選手の、「近藤はいいヤツなんです。ユニフォームに番号を縫い付けられずに困っていると、ニコニコしながらササッと縫ってくれる」という言葉に、「なるほど、だからこそなんとか援護しようと打線がひとつになるのか」と合点がいった小倉さんは、近藤に背番号1を与えている。

 かと思うと、敏子夫人が合宿に来るとなれば、「ちょっと掃除機持って、監督の部屋に集合!」と、選手たちに掃除を頼む。オマエらに"部屋を掃除しろ"といっておいて、自分の部屋が汚いんじゃ俺がかあちゃんに怒られる、それじゃあ監督の面目が立たない……というわけだ。

山崎福也を"山ちゃん"と呼んで

 強豪・日大三というと、厳格なイメージが先に立つが、こうした温かみがある。まるで家族のような空気。10年のセンバツで準優勝したとき、小倉さんはエース・山崎福也(現オリックス)を"山ちゃん!"と呼んだし、11年夏に全国制覇したメンバーは、「監督を男にしたい」と口をそろえていたものだ。それは、グラウンド上では厳しい小倉さんが、日常では敏子夫人を恐れるような人間くささを見せることと無関係ではない。

「女房には、頭が上がらないですね。関東一の監督になってすぐに結婚したんですが、合宿での食事風景を見た女房が"雰囲気がおかしいわよ"。練習で絞られ、寮でもピリピリし、食事も正座して静かに……では、選手も元気が出ないというわけです。確かに自分が高校生のときも、寮での食事は少しも楽しくなかった。翌日から食堂でテレビをつけ、話もするようにしたら、雰囲気ががらっと明るくなりました。小さいころからたまに合宿に遊びに来ていた孫にも、教わりましたね。あるとき、先輩が掃除をしているのに、1年生が突っ立っているのを自分がどやしつけたんです。すると見ていた孫が、"じいじ、怒鳴るんじゃなくて教えてあげなきゃわかんないんだよ、1年生なんだから"(笑)」

 甲子園通算37勝、優勝2回の大監督も、孫の前ではかたなしだったか。

 自分は幸せ、と小倉さんはいう。山あり谷あり、だけど谷に落ちたときに決まって、どこかから手がさしのべられる——就職浪人まがいだった新卒時。半ばクビとなり、野球を離れた4年間。そして関東一時代、何度も煮え湯を呑まされた帝京・前田三夫監督。いずれも、自分を前に進ませるエネルギー源だった。

「10年のセンバツに帝京とアベック出場したとき、前田さんが"日大三の打者は、点差がついても最後まであきらめねえだろう"と、自分のところの選手にいっていたらしいんです。なんか、うれしいですね」

 実はたまたま、日大三のOBから「小倉さんがやめるらしい」と耳打ちされていた。秋の東京大会で敗退したとき、それとなく周囲にもらしたという。最初に小倉さんにお話をうかがったのは、関東一時代の86年。そこからでも、37年がたとうとしている。

 勇退の記者会見で小倉さんは、こう語った。

「自分はこれまで、2度解任されている。日大の学生だったときに日大三高のコーチをクビになり、2度目は関東一で監督を解任されています。ですから、最後は自分でやめることに、何の迷いもないんです。自分で決めてユニフォームを脱げる、これは本当に恵まれたことだと思います」

 最後ばかりは、「こんちくしょう」ではなかったわけだ。小倉さん、お疲れ様でした。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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