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勇退する日大三・小倉全由監督曰く「こんちくしょう」の野球人生とは(その2)

楊順行スポーツライター
優勝した2011年夏の甲子園(写真:アフロ)

 小倉さんが監督に就任した当時の関東一は、前年夏に東東京で過去最高のベスト4と、強化を推し進めていた。当時としてはめずらしい雨天練習場と合宿所に、小倉さんは奮い立った。81年4月に監督就任。若いだけに先頭に立って体を動かし、合宿に住み込んで、やんちゃ者たちに掃除の方法、食事の作法から教え込んでいく。2年目にはベスト8、3年目には初めて東東京の決勝まで進んだ。だが、帝京に2対3で敗れる。当時率いていたのは、前田三夫監督だ。

「前田さんの存在も、"こんちくしょう"でした。就任した81年の秋には勝っているんですが、82年の秋は準決勝で負け、そしてこの83年夏、さらに84年の秋……ここで勝てば甲子園、というところでいつもいつもやられた。また前田さんは、こちらが挨拶しても軽く手を上げるくらいなので、もう憎くて憎くて……(笑)」

 そして迎えた、85年。春は決勝でまたも帝京に敗れたが、その夏の決勝だ。センバツで準優勝した帝京のビデオを穴が空くほど見て、小林昭則(元ロッテ)らを攻略。12対5と圧勝し、ようやく甲子園に初出場。西東京代表の母校・日大三が初戦負けしたのを尻目に、ベスト8まで勝ち上がった。そこからは、とんとん拍子だ。その秋、86年の秋も決勝で帝京に敗れはしたが86、87年とセンバツに出場すると、87年は三輪隆(元オリックス)を中心に明徳義塾(高知)、池田(徳島)などを破って決勝に進出。立浪和義(元中日)世代のPL学園(大阪)に敗れたが、「関東一? どこの県や」といわれていた校名を一躍アピールした。しかも、アベック出場の帝京はベスト8止まり。ここまで、前田監督との対戦成績は2勝6敗でも、ちょっと溜飲を下げた。

 だが、またも"こんちくしょう"である。関東一の知名度が上がるとともに、OBからは「この人間をコーチにどうだ」という売り込み、父兄からは誹謗中傷。87年夏は修徳にコールド負けするなど、甲子園から遠ざかったからなおさらだ。最終的には新しいコーチを押しつけられたことで小倉さんは反発し、辞表を提出した。89年の3月というから、準優勝からまだ2年しかたっていない。

「まあ、実質的なクビですが、高校野球ってこんなものか、と一生懸命にやってきたことがバカらしくなって。二度と野球にはかかわりたくない、とまで思い、そこからは一教員として、家から電車通勤です。娘たちもまだ小さかったから、夏休みは毎日海に行っていましたね」

彩りのない4年間を経て……

 野球を離れたそういう生活が、4年間。振り返れば、クラス担任や学年主任を任されたことが、生徒の指導には大きなプラスになっている。

 野球部は、さまざまな個性がいても、甲子園という目標そのものは共通している。だがクラスには進学希望から就職組、あるいは学校ギライまで千差万別で、まとめていくのは並大抵じゃない。

 辞任が唐突なら、復帰も唐突だった。父兄とのトラブルから前監督が退任し、学校側が小倉さんにすがってきたのだ。92年の12月だった。もうかかわりたくない、と思ったはずなのに、野球の虫がうずく。そういえば以前、ずっと小倉さんを支えてきた敏子夫人がポツリとこんなふうに語っていたことを思い出す。関東一で小倉が野球を離れていたときのことは、私の記憶にもないくらいなんです——それだけ、彩りのない日々だったのだ。

 復帰した小倉さんは、乱れていた合宿での生活からたたき直すと、翌93年夏、現監督の米沢貴光らがいたチームは惜しくも東東京で準優勝。最後は「もっと早く監督がきてくれていたら、甲子園に行けていましたかね……」と慕われ、手応えを得た。翌94年には、東東京の決勝で帝京に勝ち、自身4度目の甲子園へ。ところが96年度まで務めたところで、なんと母校・日大三から監督就任の打診である。

 当時の日大三は、やや低迷期といっていい。春はともかく夏は、85年の出場が最後。95年夏には、西東京で初戦負けという考えられない屈辱もあり、立て直しのため小倉さんに白羽の矢が立ったわけだ。

 それにしても、手のひら返しじゃないか。新卒のときには放りだしておいて、困ったときにはすがってくるなんて。

「内心、わだかまりはありました。でも、外に出てみて初めて、母校の偉大さがわかったのも事実。現実問題として、生徒の進路などでも三高の名前は大きいですから、OB会にも出るようにはしていて、すると根本(陸夫)さんや田口(潤)さんという大OBが、"小倉、がんばれ"といつも声をかけてくださるんです。根本さんなんかは、自分が監督をクビになったときに"それはいい経験だ。監督・小倉ではなく、人間・小倉を見てもらえ"とまでおっしゃってくれて。自分はOB会に漠然と反感を持っていても、皆さんはあたたかく見てくださっていたんですね。それよりなにより、"もう1回甲子園に出してくれ"というのが殺し文句。母校が困っているなら結果を出すのが男だろう、と思いましたね」

 このあたりは、やっぱり任侠映画好きなのだ。(つづく)

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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