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勇退する日大三・小倉全由監督曰く「こんちくしょう」の野球人生とは(その1)

楊順行スポーツライター
優勝した2011年夏の甲子園(写真:アフロ)

 2022年12月。「令和4年度東京都指導者研修会」で、都内の高校野球指導者ら約230人が集まり、前帝京監督の前田三夫氏が講演した。最後に、質疑応答の時間が設けられ、手を上げたのは小倉全由・日大三監督である。

「前田監督には負けて、負けて、初めて甲子園に出させてもらったのが昭和60(1985)年。自分が28歳で、監督が36歳だったと思います。あのときは、前田監督を挑むような目で見つめていましたが、そんな若僧をどんな思いでご覧になっていましたか……」

 概ね、こんな内容だった。全国優勝3回の前田氏と、同じく2回の小倉氏。東京を代表する両名将のやりとりに、館内はドッとわいた。

 小倉さんからはかつて、こんな話を聞いたことがある。

「前田さんと私的な話ができるようになったのは、50歳を過ぎてから。確か、都の指導者講習会に講師で招かれたときです。18年には、都の高校生選抜チームがキューバに遠征したとき、監督とコーチとしてご一緒しました」

 81年、関東一の監督となった小倉さん。本人が語るように、85年夏に同校を甲子園初出場に導いて8強入りし、87年春には準優勝を果たすが、前田・帝京には何度も煮え湯を呑まされた。ただ……そもそもなぜ、日大三出身の小倉さんが関東一の監督となったのか。

こんちくしょう、負けていられるか!

「節目節目で"こんちくしょう、負けていられるか"という経験があり、それがエネルギーになってきたような気がします」

 千葉・九十九里浜の最南端にあたる一宮町に生まれた。三角ベースやソフトボールにのめり込み、一宮中ではピッチャーを務めたが、顧問がまったくの素人。バントもエンドランも知らない野球で、大した実績はない。土地柄、強豪の銚子商、あるいは成東への進学を考えたが、6歳上の長兄・博活さんが、「野球をやるならレベルの高いところで」と日大三を勧めた。

 当時日大でプレーしていた博活さんは、下級生時代に日大三と練習試合をした経験があり、レベルの高さを実感していた。ちょうど日大三では、博活さんと同級生の小枝守さん(故人・元拓大紅陵監督など)が学生コーチを務めていた縁もあり、小倉さんは千葉から日大三に進んだわけだ。

 1年の夏前には練習試合に抜擢されたから、能力はあった。秋の新チームはベンチ入りを果たし、チームは東京で優勝を飾る。だが、投手から三塁手に転向し、打球に飛び込んだ際に左肩を脱臼すると、それがクセとなる。ちょうどその73年に始まった明治神宮大会・高校の部ではスタンドから応援したし、翌年のセンバツでも背番号をもらえなかった。2年になると、今度は右肩を痛めるのだから、なんともついていない。3年の夏は背番号13。

「都立高専との初戦、先発全員安打で3回コールド勝ちしたんです。控えの僕も、代打で使ってもらった。よっしゃ、ここで一発……と思ったら、デッドボール(笑)。悔しくてね、バットをたたきつけてマウンドに向かっていった。当時のチームメイトには言われますよ、"あんときのお前が監督なんて、わかんねぇよなぁ"って」

 次の試合で城西に敗れ、高校野球を終えた小倉さんは、76年に日大に進むと、野球はすっぱりと辞め、学生生活をエンジョイしようと考えていた。だがその矢先。日大三でコーチを務め、秋からの監督就任が内定していた小枝さんから声をかけられる。遊んでいるなら、練習を手伝ってくれないか。当時の上下関係では、先輩の言葉は絶対である。選択肢はない。合宿に住み込んでの、コーチ見習いだ。

 ところがなにしろ、学生生活をエンジョイするつもりである。できるだけグラウンドを離れたくてマメに授業に通い、授業がなくても新宿で『唐獅子牡丹』などの任侠映画を見る。そのまま練習に顔を出すと、映画の主人公になりきり、エラーした野手に「われ、こらぁ〜」などと怒鳴りつけた。このころの小倉さんに、指導者になる気は、これっぽっちもない。

 だが、大学4年の79年夏だ。日大三は西東京を勝ち抜き、夏は17年ぶりの甲子園にコマを進める。チームは初戦で天理(奈良)に敗れたが、小倉さんは試合前の外野ノックを任された。

「いいなぁ、と。芝がきれいで、スパイクの歯が土にさくっと入って。もし監督としてここに来られたらどんなにいいだろう、と初めて指導者ということを考えましたね」

 幸い年末には、当時の野球部長から「齋藤(旧姓)、学校に残れ」と声をかけられた。だからすっかりそのつもりで、就職活動もしなかった。だが、新年度。急転直下、秋からチームは新監督を迎えることが決まり、小倉さんの就職はご破算になった。さあ、どうしよう……これが最初の"こんちくしょう"だ。名門であればあるほど、OBの発言力は大きい。コーチ時代、負けの報告に訪れた長老宅で、小枝監督が正座し、頭をたれる姿を何度も見た。愉快ではなかった。そして、自分の人生も簡単にもてあそぶ。

 コーチを辞し、地元に戻った小倉さんは、働き口を得るために昼は教員採用試験の勉強をし、エンジョイするつもりだった学生時代を取り戻すように、夜は昔の仲間と遊び回る日々である。そういう境遇を気の毒に思った三高OBが、関東一を紹介したのは80年12月のことだ。

 関東一としては、指導者として実績のある小枝さんを招きたかったが、こちらも母校を追われるかたちとなった小枝さんは「東京のチームではやらない」と意地を通し、拓大紅陵に新天地を求める。そこで、小倉さんにお鉢が回ってきたというのが、監督就任の真相らしい。(つづく)

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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