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[甲子園]勝敗の分水嶺/第2日 八戸学院光星、青森勢の活躍で快勝! 元祖甲子園のアイドルはどう思う?

楊順行スポーツライター
(写真:アフロ)

 一塁守備のむずかしいところは、自分がどの範囲までの打球を処理するかの見極めだ。出すぎれば塁に戻るのが遅れるが、消極的すぎてもヒットゾーンが広がる。4回、創志学園(岡山)の守りでまさにそれが出た。

 1死後、八戸学院光星(青森)の二番・深野友歩の打球は一、二塁間のやや二塁手寄りへ。創志学園の一塁・谷昂之介も積極的に追ったが、その分ややキャンバスへの戻りが遅れ、二塁手・岩本遥大からの送球を捕りきれない(記録は谷のエラー)。

 光星は、このもらった好機を、続く中澤恒貴が左前打してさらに拡大すると、四番・野呂洋翔が詰まりながらもライトの前に落とす先制タイムリー。続く織笠陽多は、レフトへ長打性のライナーを放つ。これは相手野手に好捕されたが、犠牲フライには十分で、好投手・岡村洸太郎から2点を先取した光星はその後も着々と加点し、7対3で快勝した。

 もし深野の打球をアウトにしていれば、2死走者なしだから、光星の4回の2点はあったかどうか。高校野球だから酷なことはいいたくないが、あのワンプレーが大きかった。一塁手にとって、確実な送球処理はもちろんだが、空間認識力の大切さがあらためて問われた場面だ。

どこまで追うのか。一塁守備の奥深さ

 まあそれはいいとして、この回の得点にからんだ野呂も織笠も、青森県の出身である。

 おもに関東や近畿などから選手が集まる光星にあって、県勢はスタメンではこの2人だけだ。だが、入学以来のホームラン数は織笠が22本、野呂が18本と、登録18人中1、2位を占める。堂々と四、五番にすわるのも当然だ。青森大会では野呂が打率・455を記録し、織笠は東奥義塾との準々決勝で満塁本塁打を放つなど打率5割、2本塁打、8打点とチームの三冠王だから、文句のつけようがない。

 2人が光星を志したきっかけは、2019年夏の甲子園だ。下山昂大が令和初の満塁本塁打を記録し、「県内出身でも光星で活躍できるんだ」とあこがれたのだ。

 入学した1年秋にはともにベンチ入りと、すぐに頭角を現した。野呂はケガ、織笠は鋭い変化球に苦しみながら、「織笠は仲間でもあるけどライバルでもある」「野呂がいい打球を打ったら、次は自分も、と思う」とお互いを強く意識し、徐々に中軸に成長していく。

 そして、この甲子園。先制打を放った野呂は、2点差とまだ予断を許さない8回にも、右中間を破る三塁打でダメ押しの5点目をたたき出し、光星は7対3で快勝した。光星にとっては、下山が満塁弾を放った19年夏、ベスト8入りして以来の甲子園の勝ち星だ。

 この日は、外野の控え・成田光佑も途中出場。8回にヒットを放ち、野呂の一打でホームを踏んだから、光星のベンチ入り18人のうち、3人の青森出身者がそろって活躍したといえる。野呂はいう。

「今日の結果で、県民も負けていないって示せたかな」

 光星・仲井宗基監督も、

「打つべき人が打てば、いい展開になる。野呂は打率こそまあまあでも、青森大会はさほどよくなかったんですが、調子を取り戻してくれました」

 大会前、別の取材で太田幸司さんに会った。青森・三沢時代の1969年夏の決勝で、松山商と延長18回を0対0で引き分け、再試合を演じたレジェンドである。だがその再試合では2対4で敗れた。それ以降も挑戦するたびにはね返され、東北のチームはいまだに優勝していない。

「われわれが決勝に進んだのは、東北勢としては第1回大会の秋田中以来でした。それ以降も、何度挑戦しても優勝旗は白河の関を越えられない。ダルビッシュがいた東北も、菊池雄星の花巻東も。光星も3季連続準優勝ですが、そのうち2回は12年、大阪桐蔭の春夏連覇です。だけど昔と違って、東北のチームと全国に大きな力の差があるわけじゃありません。優勝も、そう遠くはないと思います。ただ……光星の場合、青森県勢が少ないのがちょっと寂しいけどね」

 そう語る太田さんだが、この日の野呂と織笠の活躍には、目を細めているんじゃないかと思う。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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