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古葉竹識さんが大学野球で見た『フィールド・オブ・ドリームス』

楊順行スポーツライター
東京情報大監督時代の古葉竹識さん(写真:YUTAKA/アフロスポーツ)

「私はね……」

 と、その監督はいった。

「(専修)大学に進んだんですが、経済的な事情があって1年でやめました。その秋のリーグのことです。4年生のマネージャーが、監督に“古葉を使ってください”と直訴してくれたんです。学校をやめることを知っていたんでしょう。それで2、3試合に出させてもらった。だからでしょうか、大学野球には、なんともいえない郷愁があるんですね」

 古葉竹識さん。熊本・済々黌高から専修大、社会人の日鉄二瀬を経て1958年に広島入りし、71年南海で現役引退。シーズン途中に広島の監督となった75年、セ・リーグのお荷物といわれたチームを初優勝に導いた。以来11年間でリーグ制覇が計4回、そのうち3回は日本一に輝いた名監督だ。ことに79年、近鉄との日本シリーズは、「江夏の21球」として知られる名勝負だった。

 のち、大洋も率いた古葉さんが、大学野球の監督に転じたのは2008年のこと。実は就任は、07年度の予定だった。ただその前に、マスターズリーグ・札幌アンビシャスで監督を務めたのがプロ活動と見なされた。当時はプロの退団者がアマチュアの指導者として認定されるには退団から2年という規約があり、それを満たすまで1年待機したわけだ。その間指揮を執ったのは、古葉監督の三男・隆明さんだった。

神宮で佑ちゃんと対戦して、日本一に

 取材に出向いたのは、監督就任から3年目の10年春。古葉監督は、こんなふうに話してくれた。

「就任したとき、“神宮で佑ちゃん(斎藤佑樹・当時早稲田大)と対戦して、日本一になりたい”と抱負を語りました。彼は今度4年生、今年が最後のチャンスですね」

 魅力的な低音。落ち着いた語り口。人をとろけさせるときおりの古葉スマイル。だが、熱い。夢中になると、生まれ育った九州の言葉がまじる。隆明助監督(当時)は、こう語った。

「“If you build it, he will come”、それを造れば、彼がやってくる——の“彼”が、うちの父だったわけです」

 映画『フィールド・オブ・ドリームス』中のセリフである。目の前の“それ”。東京国際大のグラウンドは、プロの公式戦が行われても不思議じゃないほど立派だった。両翼98メートル、センターが122メートル、スコアボードは電光掲示で、照明灯も4基。竣工はまさに、古葉監督就任の08年6月である。

 それまでといえば、当時の野球部長が「畑に土を入れただけの状態。雨が降ったら、ぬかるんで2日間は使いものになりませんでした」というシロモノ。だが東京国際大はそのころから、全学あげてスポーツ部の強化を大胆に推進する。全国的にも知名度の高い古葉監督の就任は、その目玉だった。

 開学(当時は国際商科大)の65年に創部した野球部は、67年から北関東甲信越リーグに加盟(東部大学野球連盟)し、84年までの36シーズン、一度も優勝はない。85年には、加盟校を募っていた東京新大学野球連盟に移籍した。3部からスタートし、翌年春には最短で1部に昇格したが、創価大と流通経済大など強豪なみいるリーグである。04年秋の2位が目立つ程度で2部落ちも何度か経験し、むろん優勝はない。こじつければ、リーグ制覇のない広島の監督になったときと同じである。

 だが正式就任の前年、07年秋には創価大に敗れはしたが、いずれも3対4という接戦で、流通経済大からは5年ぶりの勝ち点をあげて5年ぶりの2位。神宮代表決定戦でも、初戦で上武大に敗れはしたが2対3のサヨナラ負けとほぼ互角で、その上武大が本大会で優勝するのだから、力はつけていた。そして古葉監督就任以来の成績も、08年春から4位、3位、3位、2位と安定しており、手応えもあった。

「孫のような選手たちですが、創価を相手にしても気持ちで負けなくなりましたね。厳しい練習をしていますから、体もずいぶんできてきました。私は、プロのときもそうでしたが、試合中のすべてのボールを見ています。むろん投球だけではなく、守備ならポジショニング、スタートの1歩目、打球を処理する以外の野手の動き、中継のライン。攻撃なら走者のリードの大きさ、第2リードのとり方、すべてを見ている。そうしないと、選手に指摘できませんからね。ずっとそれを徹底したので、選手たちの意識や野球への取り組み方も、確実に向上しています」

 と古葉監督。当時の選手に聞いても、「指導のレベルは高いし、作戦面でもさすがですね。たとえば一塁に走者を置いた初球にエンドランのサインが出て、ファウルになると2球目も続けてエンドラン。ワンストライクですから相手はほぼ無警戒でまんまと成功し、なるほどなぁ、と思いました。野球を知り抜いています」。

 このときの取材から1年後の11年春、東京国際大は創価大から初めて勝ち点を挙げ、その勢いのままリーグを初制覇。「胴上げなんて、何年ぶりかな」と、古葉スマイルを見せていたものだ。大学選手権でも、佑ちゃんとの対戦こそなかったものの、ベスト4に躍進している。

 茶目っ気もあった。僕の家内は、福岡・飯塚市の出身。古葉さんが社会人時代に在籍した日鉄二瀬の本拠地で、雑談するうちに「広島に在籍していた青木(勝男)という選手が、飯塚で焼肉屋をやっていますよね。そういえば二瀬のグラウンドの外野側後方には当時、いかがわしい宿がありましてね……(笑)」。合掌。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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